
言語が先か、知覚が先か。【さとゆみの今日もコレカラ/第 247 回】
先日師匠のバーで、ソムリエさんが勉強をするための、ワインの香りボトルのようなものをひたすらかがせてもらう時間を過ごした。
私が師匠に「ワインの味や香りを表現する言葉を知っていたら、ワインはもっと味わい深くなるのですか?」と質問したからだ。師匠は「それは、もちろんそうだ」とおっしゃり、「言語が先にあり、言葉によって味は知覚できる」と言った。
なるほどこれがプルーンの香り。なるほどこれがドライいちじくの香り。言葉を知るとたしかに、A と B の差分がわかる。これが、ワイン好きの人たちに見えている(味わえている)世界(の一端)なのだなと感じる。
以来、ワインを飲むたびに、「この香りはどう表現されるのですか」「これはどういう味といえば伝わりますか」と、自分が今感じている味覚と対になる言語の神経衰弱をしている。
言語が先か、知覚が先か。
言葉を知っているほど人生は味わい深くなるのか。それとも味わい深い人生を送っている人がそれを表現する言葉を獲得するのか。ここ数年、ずっと考えているテーマである(『書く仕事がしたい』のエピローグもその話であった)。
言語が先か、知覚が先か。
脳科学に詳しい先輩にも聞いてみた。まだこの議論に決着はついていないらしい。言葉はおそらく、何らかのインプット(神経細胞の発火)があって生まれるようだが、では、そのインプットは知覚に限るかといえば、そうではない。
インプットがあった場合と、言葉を発する場合のいずれも、その部位に「しっかり働けよ」と血流が多くなる。でも「この部位に血をたくさん流せ」と指示を出しているのが何かは、まだわからないのだという。
言語が先か、知覚が先か。
先日、それをテーマにした原稿に出会った。「そう! 普段私が考えていることは、たしかに言葉にするならこういうことだ」と思うような震える原稿だった。CORECOLOR で連載してくれている、ちえみの原稿である。
ウォーターのくだりで、脳内に閃光が走るような感覚があって、「ああ、いま 私の脳内で血がどばっと流れた」とわかった。「もっとしっかり脳を働かせろ」と言われている。これについてもっと考えるのだ。知るのではなく手に入れるのだ。何かがガンガン脳を蹴飛ばしている。
ちえみのこの原稿は昨日アップしたのだけど、「なぜか読んでいて泣きそうになりました」という感想がいくつかあった。よくわかる。私も泣きそうになった。ぜひ読んでもらえましたら!
【この記事をおすすめ】
私は、言葉を知ったのではなく、手に入れた。その夜は嬉しくて嬉しくてひどく酔った。


