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誰かに誤解されたと思ったら【さとゆみの今日もコレカラ/第 307 回】

以前実家から引き上げてきた中学高校時代の日記やメモ書きの中に、一箇所筆圧の強い文字で「誤解も理解」と書かれていて、その部分がぐるぐるぐると赤ペンで丸囲いされていた。多分、何かの小説を読んで考えたことを書き留めたのだろう。

その横に、「誰かに誤解されたと思ったとしても、その人が私をそう思ったということだから、それは誤解でもなんでもない」とメモされていた。

中学のときからそう思っていたのか私、と、ちょっと驚く。

そういえば、『ママはキミと一緒にオトナになる』の原稿を息子にチェックしてもらったとき、彼はひとしきり読んだあと「僕にとってはなんか違うなあというところもあるけれど、これは僕に対するママの意見を書いているわけだから、好きにすればいいと思う」と言った。「誰かに何か言われたら『ああ、あれはママの意見ですから』と答えるから」とも言っていた。

人と人をまぜない、人とその人の意見をまぜない。そういうインディペンデントなところは、似ているのかもしれない。

最近「◯◯さんがさとゆみさんのことを△△と言っていたよ」と耳にする機会が何度かあって、「ほおおおお、そちらからはそう見えるのか」と、非常に驚いたし、面白かった。一瞬「それは誤解だけど」と言いそうになったのだけど、いやまあそれも先方の理解だなと思い直した。

あなたにはそう聞こえたのですねとか、あなたにはそう見えるのですねマジでびっくり、のバリエーションは、できるだけたくさん知っておきたい。

意図せず人を傷つけることが減るなあと思うし、自分の見られ方を気にすることの虚しさも確認できるので、その点でもいいなと思う。

文章においては、誤解(誤読)されたときのほうが、相手の血肉になっていて面白いなと思うときもある。この話は、また考えたい。

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ラーメン屋でのやりとりを思い出す。こちらの主張は間違っていないはずなのに、なぜうまく伝わらなかったのか。

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