声と仕草でどんな人にも見えてくる。『渋谷らくご』ベタ惚れになる、30分
私の脳内には、「人生で一度は体験したいことリスト」がある。オペラを生で見る、海外旅行に行く、プロ野球のキャンプを見に行く、などなど、その気になれば、実現できそうなものばかりだ。しかし、紙にもスマホにも残していない。その時点で、実現させる意欲がそこまで高くないのは明白だ。そんな意欲が低めのリストの一つに「落語を生で見る」がある。
お笑いが好きで、よく見ていたが、落語は生で見たことがない。劇場に足を運んで見に行くのは、お笑い芸人のネタライブやトークライブだった。
私と落語との接点は、ぼんやり見ていた笑点と、最近よく聞くラジオに出演している落語家くらい。気になる存在になったのは、林家つる子さんだった。特徴的な笑い声と、優しい言葉遣いで、魅力的だなあと思っていた。彼女が出演しているラジオで「落語を初めて見に行くときは、林家つる子さんと決めています。落語を見に行く時に、なにか知っておいた方がいいことはありますか?」とリスナーからのメールが読まれた。ぽんっと、「人生で一度は体験したいことリスト」が浮かぶ。ああ、私も落語を見るなら、つる子さんがいいなあ。「前準備をしなくても、落語は楽しめます。ぜひ見に来てください。」そう答えるつる子さんの声が、忘れられなかった。私のリストは、「落語を生で見る」から、「林家つる子の落語を生で見る」に修正された。
そこから、リストが消化されるのは早かった。「渋谷らくご」に林家つる子さんが出演すると知った。渋谷らくごのコンセプトは、「初心者でも楽しめる」らしい。4名の落語家が出演し、持ち時間は1人30分。この持ち時間が長いのか、短いのかも判断できない初心者には、うってつけの場所ではないか。そう判断してチケットを取った。
会場の渋谷ユーロライブに入った。舞台の上に高座があり、その上に厚みのある座布団が置いてあった。マイクは漫才のセンターマイクと同じ型だ。客席は映画館の座席と同じような作りだった。センター寄りの後列の座席に座り、公演開始を待った。
客席の照明が暗くなると、舞台の後方の壁に名前が映し出された。林家つる子と書かれていた。ああ、本当に初めて生で見る落語が、つる子さんになった。そんな喜びを拍手に込めた。つる子さんが座布団に座ると、きらきらした目で客席を見まわしていた。「満員のお客さまですね、ありがとうございます」とラジオで聞いた、なじみ深い声が聞こえた。
最初はフリートークのようだった。客席の様子からはじまり、渋谷らくごの過去の出演や、ご自身が真打に昇格することまで、話は広がる。「真打に昇格しますが、名前は変わらず、林家つる子のままです」と言っていた。落語家の名前が変わるのは、昇格するからなのか。名前が変わらないこともあるのか、と落語の知識が増えたことも、なんだか嬉しかった。師匠から、林家つる子の名前をもらうまで、3日間だけ本名の「みなみちゃん」と呼ばれていたことを話して、会場が笑いに包まれていた。ああ、これラジオで聞いた話だ。落語のつかみのネタだったのか! となんだか私だけ、聞いたことのある話を、生で聞けた喜びと、ちょっとした優越感で笑っているような気もした。
そんなつかみの話から、落語に入っていく。今日の演目は、過去に出演した渋谷らくごで初披露した、新作落語だと言っていた。落語家の方が自身で作った落語は、新作落語というらしい。一つひとつ、落語の世界の言葉を知れたことが、また嬉しかった。
つる子さんが披露した新作落語は、ベタな展開に憧れる、女子高生のみなみちゃんが主人公だ。林家つる子さんそのまんまの主人公の面白さに加え、最初に驚いたのは、林家つる子さんの表現力だった。さっきまで学校に遅刻しそうで、急いでいた女子高生のみなみちゃんから、一気に道端にいる不良の男性に変わった。声色が男性そのものに聞こえることはもちろん、ドラマやアニメに出てくるような、不良の男性の声に聞こえるのだ。声色が変わった瞬間、男性がどこかでアテレコしているのか? と思うくらいだった。でも、間違いなく林家つる子さんから声が聞こえる。不思議な体験だった。そこから話はどんどん進んでいく。不良に絡まれたみなみちゃんを助けてくれた、ちょっとワルな男子高生は、みなみちゃんのクラスに転校生として再び登場する。ベタだ。ベタ過ぎる。そこから先も、ありとあらゆるベタな展開が訪れる。この流れだったら、このベタな展開が訪れるだろう。そう予想がついて、予想通りに話が進んでいく。話が予想できるのに、滅茶苦茶面白い。いや、話が予想できるから、面白いのかもしれない。
林家つる子さんは、座布団の上に正座をしている。もちろん役柄によって身振り手振りをしたり、場面に合わせて動いているが、座布団から立ち上がったり、離れることはない。なのに、場面がどんどん変わっていく。正座をしているはずなのに、みなみちゃんや登場人物たちは、立ったり走ったりと、縦横無尽に動いているのだ。
公演が終わり、頭の中で舞台の様子を振り返っていた。すると、座布団の上で正座をするつる子さんの姿と、登場人物たちの様子が、映像として浮かんできた。つる子さんの声と、身振り手振りでしか見ていない登場人物たちが、頭の中で勝手にドラマのように再生されていくのだ。落語の面白さは、この表現力なのだと、ようやく気付けた。
生で落語を見てから数日後、私は鼻息荒く、友人に落語の魅力を語っていた。登場人物が映像のように浮かび上がってくるみたいだった、と伝えると、友人は「感性がすごい」と言った。はて、感性とは。友人は、「落語を見て、そこまで想像できるのがすごい」と思ったらしい。いや、本当にそうなんだよ、いいから落語を見てくれよ。そう思いながら、私の頭の中にいる、つる子さんと登場人物たちは動き出す。私はさらに、鼻息荒く友人に向かって語り出す。
思い返せば、私は落語を生で見るまで、耳で楽しむものだと思っていた。話の内容や、言葉の面白さが魅力なのだと、勝手にそう思っていた。生で見ると、身振り手振りなど、目で楽しむ要素も沢山あった。耳と目で楽しみ、さらに頭の中で想像して楽しむ。
いくら声色が変わっても、身振り手振りが変わっても、表現をしているのは、舞台に立つ落語家ひとりだけ。登場人物がどんな見た目をしているか、どんな人生を歩んできたのか、舞台の上に、その正解はない。小説を読むように、どんどん想像は膨らむ。想像できる余白の多さに、私は魅力を覚えたのかもしれない。
友人にも、「人生で一度は経験したいことリスト」があったら、「落語を見に行く」が入っていてほしい。できればつる子さんを見てほしい。もし、同じ演目を友人が見たら、どんな感想を言ってくれるのだろう。そんなことまで想像をしていると、つる子さんが、にこにこしながら手招きをしてきた。もちろん、これも想像だ。
文/虻川 なつみ
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