「話を深掘りしようとすればするほど、深い話が聞けなくなる」問いのミステリー、さてどう解くか【連載・欲深くてすみません。/第23回】
元編集者、独立して丸8年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日はインタビューで「問いかける」ことの効用と難しさについて考えているようです。
おととい、長年お世話になっている編集長と打ち合わせをしていて、こう言われた。
「あなたの仕事って占い師のようでもあるよね」
占い師? オーラも生き霊も見えないし、一寸先の自分がどうなっているか想像もつかない。そんなワタクシめに他人の運勢などわかるものですか、と不思議に思ったが、どうやら編集長が言いたいのはそういうことではないようだった。
インタビュアーの重要な仕事として「問いかける」ことがある。目的はもちろん、記事を書くこと。しかし時に、意図しない効用をもたらす。問いによって、本人すら気づいていなかった、無意識レベルの思いや願いが言語化されることだ。
ああ、私は、本当はこう思っていたんだ。
気づかなかったけれど、本当はこうしたかったんだ。
良質な質問は人の潜在意識に働きかける。思いが言語化されれば、その人の意識や行動が変わり、人生が変わることすらありうる。人に問いかけることは、そのような可能性を孕んだ仕事とも言える。
「つまりあなたは、人を新たな人生へと導く占い師に通じるくらい、とってもすてきなインタビュアーだね!」
とまでは編集長はまったく言っていなかった気がするが(相手に褒めるつもりがなくても、言外のニュアンスを勝手に補い、褒め言葉として大げさに受け取る癖があるので、ちょっと盛りすぎたかもしれない)「ほほう、そうかもしれませんね」と、にやけた。
――ただし、私の思うこの仕事の難しさは、意識して“深掘り”しようとすればするほど、深い話が聞けなくなることだ。ましてや「その人の“本心”の言語化を手伝おう」なんて欲をかいた時点で、迷宮の入り口に片足を突っ込むことになる。
どういうことか。
それはすなわち「人の“本心”とは一体なんだろうか」という問いにつながっている。
*
深掘りしたい。そしてあなたの“本心”を知りたい。そういう思いで質問を繰り出すと、たいてい圧迫面接もしくは尋問のような雰囲気になる。
恋愛のシチュエーションで考えると、たやすく想像できる。あなたの本当の気持ちを知りたい。知りたい。知りたい……。そして口を開き、出てくる言葉がこれ。
「ねえ、私のこと本当に好き??」
この質問をして、良い結果につながった人がいたのなら教えてほしい。少なくとも私の経験では、相手の心のシャッターが目にも留まらぬ速さで閉まっただけだった。
「本当に好き??️」と聞けば、多少好きだったはずのものも、すっかりいやになる。人間というのは不思議なものだ。心の奥深くに、偽らざるその人の本心がひとつあると信じて手を伸ばせば伸ばすほど、それは、つるつるつるりんと逃げていく。
ところが、これも不思議なことだが、相手の本心など求めていないときに、とんでもない話が聞けることがある。
あるタレントさんにインタビューしたときのことだ。サービス精神に溢れたその女性は、こちらの質問の意図を瞬時に察知し、流暢に、見出しになりそうなキャッチーな表現を用いながら、話をしてくれた。話すことのプロフェッショナルである。
一方、聞くことのプロフェッショナルとしてあるまじきことに、私はインタビュー中の一瞬、その方の話の時系列がわからなくなった。「すみません、これはこういうことでしょうか」と素朴な疑問を投げかけたところ、相手が「えっ」とフリーズした。
私としてはシンプルに、できごとの時系列がわからなくなって質問しただけだった。ところがその方は「そう言われてみれば、ちょっとおかしいですね。なんでだろう」と、じっくり考え始めた。
次に話し出したときには、声色や表情が全然違った。自分の内面と向き合って、一言ひとこと、言葉を紡ぎ出しているのがわかった。
インタビューが終わったあと、そのタレントさんは、帰路についた私や編集者をわざわざ追いかけてきた。
「さっきの質問で、自分でも気づいていなかった思いを言語化できました。“本当の自分”を、言葉にできた気がした。質問の力ってすごいですね。ありがとうございました」
それはどうもどうも、わざわざご丁寧に、と頭を下げる一方で、私は冷静に思った。
私の質問は“本当のその人”など、暴き出してはいない。
あのとき彼女は私に問われて、自分の話の「飛躍」に気づいたのである。時系列を整理したことによって、自分では意識していなかった行動の転換点に気づいた。
いわば点と点を結んで線を描いていたところに、その点と点の間に、別の点があることに気づいたのだ。はたから見れば、ただそれだけである。
だけど。
大通りに出るまで私たちを送り「じゃあ、私はコンビニに行ってきます!」と手を振ったその方の表情が、今でも忘れられない。「私は宝物を手に入れた!」とでも言うかのような、本当に美しく、晴れやかな表情だった。
彼女は点と点、そして見つけた新しい点で、別の絵を描き始めたのかもしれない、と感じた。
*
人の“本心”とは一体なんだろうか。私たちは、たくさんの自分をもっている。家族といるときの自分。友達といるときの自分。働いているときの自分。役割を果たしているときの自分。そして、ひとりでいるときの自分。それなのに“唯一無二の本心”なるものによって、自分の輪郭線を描くことなどできるだろうか。
こう考えたほうが、もっと自由でおもしろい。私たちは点描画だ。点がある。ただ、点がある。出会いという点、行動という点、記憶という点、解釈という点、さまざまな点を打って生きている。
ある時点でその点の集まりを俯瞰して見ると、小屋の絵のように見える。別の角度から見ればそれは、畑のように見える。点を打ち続け、もっともっと俯瞰して見れば、大海原の絵のようになる。点を打ち続ける限り、絵は変わっていく。
「絵」ではなく、その人の「点」について、目を凝らし、耳を傾け、少しでも触りたいと手を伸ばす。点から人を知る。点から文章を紡ぐ。そういう仕事をしたいと思っている。
ところで人の「点」ならよく見えるのに、自分の「点」を見ようとすると途端にピントが合わなくなるのも、また不思議なものである。どのメガネを買えばいいのかな?
文/塚田 智恵美
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