「おもしろい」を分解して出てきたのは、仕事への情熱だった『松岡まどか、起業します AIスタートアップ戦記』
夜の0時。布団の中。数日前に購入した本を読了した私は、ほくほくしていた。読んだのは『松岡まどか、起業します AIスタートアップ戦記』。先般の東京都知事選で注目を集めた、AIエンジニア・起業家・作家の安野貴博さんの小説だ。
社会人になって15年、ずっとビジネス書ばかり読んできた。本を読んで仕事に必要な知識を吸収し、キャリアアップしたかったからだ。でも最近はなんだか、仕事のために本を読むのは疲れてしまった。たまには仕事を考えず、純粋に本を楽しみたい。そう思い本屋をぐるぐるしていたとき、目に留まったのがこの本だった。帯には「22歳の非力な新卒社長のミッションはたった1年で10億円企業を作ること!?」と書いてある。おお、なんだかおもしろそう。
ひさしぶりの小説だったが、読み始めてすぐ物語に引き込まれた。普段であればスマホをいじる時間を、すべて読書に注ぐ。積読常連の私が、あっという間に最後まで読み終わった。それなのに。それなのにさ。読み終わって一番に出てきた感想は、「あー、おもしろかった!」だった。いやいや、おもしろそうだと思って読んだ本の感想が、「おもしろかった」って。それだけか。小学1年生の息子のほうが、もっと気の利いた感想を言う気がする。悔しい。もっとちゃんと、「おもしろかった」を噛み締めたい。そうだ、私が感じた「おもしろい」を、因数分解してみよう。
この本は、とあるトラブルに巻き込まれた新卒の松岡まどかが、致し方なくAIスタートアップ「ノラネコ」を起業。数々の困難を乗り越えながら「ノラネコ」を成長させていく物語だ。物語には、働く人の悲喜こもごもが随所に散りばめられている。私は起業の経験はないけれど、社会人経験はそれなりに重ねてきた。物語の中には、そんな私の「わかる」をくすぐるポイントがいくつもある。たとえば松岡が「経営者としての成熟は、人間としての成熟を意味しないのかもしれない」とつぶやくシーン。
会社を立ち上げたばかりのときは、どこにでもいる普通の新卒だった松岡。社員たちとも敬語で話し、みんなの意見を聞いて、みんなが納得できる落としどころを探りながら仕事を進めていた。でも事業の成長とともに、彼女は変わっていく。社長として舐められないためのメイクをするようになり、乾かす時間がもったいないと髪を短く切り、へらへら笑わないように表情も固くなった。
変わったのは見た目だけではない。生産性のない会話に巻き込まれるとイラつくようになり、何かを決めるときに他人の意向を気にしなくなった。松岡は自分自身を「わたし、嫌な奴になったな」と評した。
わかる。私も身に覚えがある。30歳のとき、はじめて大きなプロジェクトのリーダーを任された。プロジェクトが成功するかしないかは私次第。頭の中は「このプロジェクトをどうやって成功させるか」でいっぱいになった。リーダーとして威厳をもたなければと、休憩中もメンバーとはあまり雑談をしなかった。プロジェクトを成功させるため、個人に数値目標を課して到達できるよう発破をかけた。
その結果プロジェクトは成功したけれど、メンバーたちとすれ違う機会が増えた。松岡が社員と揉めたように、私もメンバーと揉めた。人の気持ちよりも成果を優先する、「嫌な奴」になっていた自覚がある。松岡が言うように、リーダーとしての成熟は人間としての成熟とは比例しなかった。当時の自分を思い出すと今でも喉の奥がぐっとなり、ずーんと重い何かがお腹に溜まっていく感じがする。
さきほど「わかるをくすぐる」と言ったけれど、もしかしたら古傷がえぐられただけかもしれない。でもまあ、それでも良い。古傷はいつまでも大切にしまっておくより、たまに取り出してえぐるくらいがちょうどいいのだと思う。古傷がえぐられるたびに、昔の自分の至らなさと向き合い、これからの自分の振る舞いを考えるきっかけになる。もしかしたら古傷をえぐる回数の多さが、人間としての成熟につながるのかもしれない。
さらに本を読み終わったとき、私の頭からずっと離れなかったのが「世界に価値を残せ」という言葉だ。物語では、何人かの登場人物がそれぞれ違う場面でこの言葉を口にする。何度も出てくるからか、次第に私に向かって言われているような気になった。松岡は自分が立ち上げた会社「ノラネコ」の事業を通して、世界に価値を残そうとしている。では、私は? 世界に価値を残せるような生き方をしているだろうか……。
しばらく真剣に考えていたのだけれど、出てきた答えは「世界に価値を残すって、無理じゃない?」だった。松岡のように起業しているならまだしも、一個人の私が「世界に価値を残す」なんて大それたこと、到底できるとは思えない。ただ、起業していない人は世界に価値を残せないかというと、それはそれで違う気がする。
おそらくだけれど、「世界」と「価値」をどう定義するかによって、誰でも世界に価値を残せるのではないだろうか。たとえば私なら、「世界」を「自分と関わりがある人とのつながり」、「価値」を「その人たちの役に立つこと」に定義する。とても狭義の「世界」と「価値」だけれど、これならなんとか私でも、世界に価値を残せるかもしれない。
そういえば物語の中で松岡が立ち上げた事業は、「自分の兄のような人を救いたい」という思いから生まれたものだった。その事業が成長し、兄以外のたくさんの人の人生に影響を与え、世界に価値を残そうとしている。そう考えると、世界に価値を残すために、まずは自分が決めた狭義の世界に価値を残そうと考えるのはあながち間違っていないのかもしれない。私は仕事を通して、私の世界にどうやって価値を残していこうか。
あれ。「おもしろい」を因数分解しようとして気づいたけれど。仕事から離れたくてこの本を読んだのに、結局ずっと仕事にばかり意識がいっていたらしい。当初の目的を果たせていなくて笑ってしまう。でもなぜか、仕事のことを考えても疲れなかった。むしろ本を読んで考えたおかげで、仕事への情熱が再燃した気がする。やっぱりこの本は、おもしろいなあ。
文/中道 侑希
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