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小沢健二さん『東大900番講堂講義・追講義 + Rock Band Set』で感じた人間という宇宙

あの日私たちが体感したものは、何だったのだろう。新しいエンターテインメントと言ったら簡単だが、どうもそれだけでは落ち着かない気がしている。彼があの日私たちに届けてくれたものは、すべての人類に気づいてほしい、愛を感じるための“視点”だと思った。

小沢健二さんの約27年ぶりの渋谷公会堂でのコンサートは、講義と音楽の2本立て。てっきり、音楽の演奏が始まる前の少しの間、お話をする程度のものかと思っていた。しかし講義は約2時間も続いた。むしろ講義部分の方が長い内容だった。

会場に着き、席に座ろうとしたら肘掛けの上に黒いリングノートのようなものが置いてあった。それは一人一人に配布された、講義で使う教科書だった。1センチほどの厚さで、ざらざらした黒い表紙。水色の可愛いハートマークがあしらわれていて、A4より一回り大きいくらいのサイズだ。紙テープで封がされていて、そのテープには「アケルナキケン」と書かれている。中はまだ見てはいけないようだった。

開演時間を過ぎて少し経つと、スタッフのような方が暗がりのステージの上に現れた。声を張るわけでもなく、その方はぬるっと話し始めた。マイクを通していたのに何を言ったのかが分からなかったが、その声で気がついた。小沢健二さん本人だった。大きなうさぎの耳が付いた被り物をしていたので、分からなかった。芸能人として気取った風がない。それどころか、「小沢健二と認識されずともこの演目は成立します」という態度にさえ見えた。喋り口調はとても優しく、友達に話しかけるような調子だった。

彼は冗談も交えながら軽く挨拶をしたあと、真ん中の椅子に座った。講義の始まりだ。封を開け、教科書をめくりながら、彼の話に耳を傾ける。教科書の中は体裁が全く揃っていない。色んな絵や、色んな大きさ・フォントで書かれた文章、透明なプラスチックのシートの上に文字や絵が描かれたページ、本当に雑多な内容で構成されていた。しかも前から順番にめくっていくわけではなく、小沢さんの「次は◯ページを見てください」という案内に従って、前へ後ろへ行ったり来たりする。初めに開いたページには、ファミコンのようなドット調の可愛い絵が描かれている。野球選手がバットを振っている絵だ。絵の周囲には余白がたっぷりととられている。そのページの上に広告風のコピーが沢山書かれた透明なシートを、被せたり、取ったり、また被せたり。透明なシートを使って、平穏な世界と広告コピーが書き散らされた世界を、行ったり来たりする。自分の胸の中で起こるざわざわとした気持ち、ささくれた気持ちを、感じる。つまり、情報洪水の様を体感したのだ。白地が沢山余った世界の方が、居心地が良いなと感じる。

次は、アナログとデジタルの違いについてだ。テレビに映る映像は、1色で塗りつぶされた正方形のマスを沢山並べて表現されている。その並べられたマスを拡大すると、アナログの世界で表現されたなめらかな曲線とは程遠い、いびつな図形が姿を現す。なめらかな曲線で描かれた美しい絵の上に、マス目状の絵が描かれた透明のシートを被せたり、また取ったりした。表現しようとしている図形は同じものだが、受ける印象は全く異なる。ここで注目すべきなのは、デジタルの世界では表現の欠損が生じていること。アナログの世界のものは、デジタルの世界で100%表現できるわけではない。マスを分ける線の上に置かれた色は省略されてしまうし、色の濃淡も全く同じように表現されているわけではない。

小沢さんは言う。表現をするという行為を選択した時点で、自分の思いや考えはどれかの言葉にあてはめなければならない。表現したいことをそのまま100%届けることはできないし、無理に表現をしようとする必要はないと。自身についても、「僕も表現をやめていた時期がありました」と付け加えた。

話は、「科学の設計者」と言われた哲学者プラトンの思想をとりあげながら、哲学と科学の世界に進んでいく。FBIの科学調査を元にした判決では冤罪が起こり、偽薬を飲んだ人の体調がプラセボ効果によって改善することもある。年代も場所もジャンルも跨ぎ、人類が積み重ねてきた様々な思想や事例を見ると、人間には割り切れない部分が沢山残っていることが分かる。「科学とは人間が捉えやすい形式の中で物事を捉えているだけ。目の前に広がるのは、ただの景色だ」そんな結論に至ったのは歴史上、一人だけではなかったそうだ。違う場所、違う時代にいた偉人たちの結論が一致していることを教科書でも確認しながら、小沢さんは「嬉しい」と強調していた。山で言うと、登山コースは違っても辿り着く頂点は同じということなのだろうか。

講義の途中途中で、小沢さんはギターを掻き鳴らしながら歌を歌う。これまで人類が培ってきた知識や思考の延長線上で改めて感じる、人間の儚さと可愛らしさ。それらを抱きしめながらゆっくりとベッドに入るような、暖かい気持ちになった。懺悔をしているわけでもないのに、何かを許されている気持ちがした。近くの席に座っていた観客がすすり泣く声が聞こえた。さっきまで哲学や科学の話をしていた空間だ。しかし、すすり泣くその声を聞きながら、じんわりと胸の中が熱くなった。人間一人一人の尊さ、この空間の尊さを感じていた。

小沢さんは、教科書に掲載されたある写真について解説してくれた。テレビのディスプレイの表面を拡大した写真だ。走査線で表現されたディスプレイも、拡大すると3色のランプの集合体なのだ。何とも古風なランプの集合だ。それはまるで、科学の成長を推し進めた先の、人間の実際の振る舞いのようだ。テクノロジーの中にも、人間らしさは残っている。そんな人間を、写真を見ながら愛おしく思った。講義の後、「強い気持ち・強い愛」の大合唱が響く中、僕は涙を流しながら小沢さんを見つめていた。大合唱の声がすべてを包み、会場のこの場にいる知らない人たちの存在も、心の底から肯定できている自分に気づき、そして思った。ああ、だから小沢さんは歌を歌うのか。

文/hanata.jp

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