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最後まで続ける(和歌山県 秘密の海岸)【チェアリング思考/第6回】

画家であり美容師であり、そして今はライターとしても活動したいと思っている私は、5年前から「チェアリング」をはじめました。アスファルトの上でも自然の中でも、椅子に腰かけると、そこが自分だけの空間へと変わります。そして思考が攪拌されていきます。ここで生まれる思考のことを、私は「チェアリング思考」と名づけました。今回は、毎年11月に訪れる「秘密の海岸」でのチェアリングのこと。

2024年11月下旬、北風が白波をおこし、海原を駆け抜ける。足元の岩で弾けた波しぶきは、北風に乗り飛んでいく。今年も「秘密の海岸」にやってきた。5年前、海に沈む夕日を眺めながらチェアリングがしたいと思い、Googleマップで和歌山県の海岸線をたどった。偶然見つけた場所が、私が秘密の海岸と呼んでいる城ヶ崎(じょうがさき)海岸だ。城ヶ崎海岸は専用駐車場がなく、小高い丘を越え、岬の先端まで徒歩でしか行けないためか、誰もいないことが大半だ。対岸には友ヶ島と淡路島、彼方には四国も見える。波の音を聞きながら1人になれる秘密の場所だ。

はじめてこの海岸でチェアリングをした時、薄紫からピンクへと染まる空と海の色に魅せられた。以来、ここで毎年11月にチェアリングをしながら1年を振り返り、翌年の新しい手帳に目標を書き込んでいる。今回は2025年の手帳と、この2年間の出来事を振り返るために2023年と2024年の手帳をバックパックに入れてきた。

バックパックを海岸の岩場に降ろし、折りたたみ椅子を取り出した。アルミポールでできた脚を組みあげ、座面を被せる。岩場に椅子を置き、腰かけた。足を伸ばし、空を見上げる。雲の流れは速く、光と影が足早に入れ替わる。沖合の白波には斜光が落ち、対岸の淡路島の上空には低く重い雲がかかっている。「今日、空は焼けへんやろな」と、ぼーっと海原を眺めながら、2023年の手帳を取り出しページをめくる。フリースペースには「次はライターになる/2022年11月」と書いていた。

コロナ禍に、私にとっての“豊かな生き方”について自問自答した。ひとつの答えが「美容師と画家とあとひとつの職業を掛け合わせ、面白い未来を体験すること」だった。同時に「知らないことを知りたい」好奇心が強いことに気づいた。以来、あとひとつの職業を探していた。

2022年11月に秘密の海岸でチェアリングをしながら、「書くこと」について書かれた1冊の本を開いた。そこには「ライターとは面白がれる人です。知らないことを知りたがれる人です」と書かれていた。これまでライターになりたいと思ったことはなかった。だけど、ピンときた。「書くことは、美容室運営にも活かせる。絵との相性も良さそうだ。おじいちゃんになって足腰が弱くなってもできる。それまで、まだ30年以上あるはずだ。学びはじめるには全然遅くない」と思考した。新調した2023年の手帳を開き、「次はライターになる」と書き、勇気をだしてライティングゼミに申し込んだのだ。

午後4時半を過ぎ、太陽は淡路島の上空にかかる重い雲へ隠れた。すると、青い空の色はくすみ、手前に浮かぶ白い雲は灰味がかっていく。目の前にスモークブルーの世界が広がった。椅子の背もたれに体を預け、半眼で景色を眺めていると思考がふわふわと漂いだした。

あれから2年、なかなか上手くいかないけれど「次はライターになる」という目標のスタートラインになんとか立つことができた。上手くいかないことは、美容師で何度も経験してきた。だけど、20年以上コツコツ技術を積み重ね、今も美容師を続けることができている。書くこともコツコツと最後まで続ければ上手くなれる。大丈夫だ。

最後まで続ける……か。

この言葉って、自分の根っこにある言葉だな。美容師の修行時代に手荒れがひどかった時も、技術が上手くならず苦しんだ時も、スタイリストになってゲストに支持されず悩んだ時も、途中でやめる選択肢はなかった。でも、どんな時も「最後まで続ける」と考えることができたのはどうしてだろう。

思考が深くなる。

幼少期の頃から続けることが得意だったのかな。いや、幼稚園に通っていた頃に習ったスイミングは、バタ足の練習が嫌ですぐにやめた。小学2年生の時に習ったそろばんも、玉を動かして計算するのが嫌ですぐにやめた。じゃあ、「最後まで続ける」という言葉に出会ったのは、いつだろう……。

そうだ。高校3年生の夏に聞いた、寡黙な父の言葉だ。

高校3年生の夏まで、何の疑問も持たずに大学受験の勉強をしていた。ところが、ふと「なりたい職業がないのに大学に行ってもなぁ」と思った。しいて言うなら、建築士がいいかなと考えた。でも、数学が必要だとわかり諦めた。次に、かっこよさそうだという理由で美容師がいいかなと考えた。2週間悩んだ後、両親に「俺、大学行かへん。美容師になる」と突然告げた。母は驚いた様子で「あんたがそうしたいなら、べつにええよ」と言いながらも、顔には「大学行きや」と書かれていた。母のとなりで静かに話を聞いていた父は「やるなら、最後まで続けろよ」とだけ言った。私は「わかった」と答えた。

あの日、「最後まで続けろ」と言った父の言葉を大切に胸に刻んだ記憶はなかった。これまでこの言葉を支えにしてきたつもりもなかった。でも、今、気がついた。

美容師として上手くいかなかった時、「最後まで続けろ」という言葉を自分の内側に置き、根っこをコツコツと伸ばしていたんだ。できることが増えるたびに、根っこが太くなっていたんだ。新しい職業にチャレンジをする時、そんな根っこに支えられ「上手くいかなくてもしょうがない。最後までコツコツと続ければ上手くなれる。大丈夫だ」と、諦めにも似た思考と自分を信じる力ができあがっていたのか。びっくりだ。

あの日、父はどんな想いで「続けろよ」と伝えてきたのだろうか。今、80歳を目前にしても現役で職人として現場に立っていることを思うと、やはり「最後まで続ける」ことを大切にしている人だ。私も中学生の息子をもつ父親となった。数年後に彼が人生の岐路に立った時、私はどんな言葉を持つ父親になっているだろうか。彼の内側に質量のある言葉をひとつ、そっと置くことができる父親でありたいな。

2025年の手帳を開きフリースペースに目標を書き終える頃、淡路島と重い雲のすき間の空は、横一文字に赤く燃えはじめていた。

文と絵/島袋 匠矢

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