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ちゃんめい

それはお地蔵さんを癒す(なおす)お仕事。目に見えない世界のその先へ『地蔵癒し』【連載・あちらのお客さまからマンガです/第25回】

「行きつけの飲み屋でマンガを熱読し、声をかけてきた人にはもれなく激アツでマンガを勧めてしまう」という、ちゃんめい。そんなちゃんめいが、今一番読んでほしい! と激推しするマンガをお届け。今回は、目に見えない世界など、不思議なものが大好きな人にぜひおすすめしたいという『地蔵癒し(じぞうなおし)』について語ります。

昔から“目に見えない世界”というものが好きだった。変わり映えのない日々の中でも、もしかしたらすぐ隣では目に見えない“何か”が私たちと同じように静かに日常を営んでいるのかもしれない。そう思うだけで、見慣れた景色がふと奥行きを増して新たな色が差し込む。だから、「好き」というより「信じている」と言った方が近いのかもしれない。

そんな気持ちがあるからか、幽霊、妖怪、守護霊、神様など、目に見えない存在をテーマにしたマンガは、気がつけば自然と手が伸びてしまう。そんな私が最近出会って、こんな描き方があったのかと、思わず息を呑んだ作品がある。それが、天海夏矩先生の『地蔵癒し』という作品だった。

若き僧侶とお地蔵さんを巡るヒューマンドラマ

――目に見えん世界は、見えとる世界より広い。

『地蔵癒し』はこんな言葉から静かに幕を開ける。

物語の舞台は、どこか懐かしい空気が流れる地方の町。その何気ない日常の片隅で、疲れ切ったままそっと佇む影がある。それがお地蔵さんだ。

お地蔵さんたちが疲れ果ててしまうのには理由がある。それは、彼らが長い間その土地の人々の悩みや想いを静かに受け止め続けてきたからだ。例えば、ある田舎町の「泥付き地蔵さん」は、代々田んぼを守ってきた親子のひたむきな願いを抱え込んだまま、泥の中で身動きが取れず、すっかり弱りきってしまっている。港町を見守る「とげぬき地蔵さん」は、あらゆる物事を見つめすぎて、目に炎症を起こし、全身がガチガチに凝り固まってしまっている。

特に印象的だったのが「みずこ地蔵さん」のエピソード。亡き我が子の安らぎを願い、訪れる人々が大量のお菓子をお供えするけれど、その善意が裏目に出て、みずこ地蔵さんはまさかの胃もたれに苦しむ……。なんでも、お供物は供えた瞬間にお地蔵さんの体に“入ってしまう”のだとか。

こうして、日々見えないところでくたびれていくお地蔵たち。そんな彼らをそっと癒す(なおす)のが、「地蔵癒し」と呼ばれる僧侶・若然(じゃくねん)だ。本作は、そんな若き僧侶とお地蔵さんを巡るヒューマンドラマとなっている。

実は見えていなかった、お地蔵さんの本当の姿

お地蔵さん自体は目に見えている存在だけれど、疲れ果てて弱り切っている“本当の姿”までは、私たちには見えていない……。目に見えない存在を描いた物語は数多くあれど、道端の片隅にそっと佇むお地蔵さんという身近な存在に、ここまで真正面から丁寧に光を当てた作品は珍しい。その世界観はどこか新鮮で、けれど不思議と懐かしさを感じる。

また、私たちが日ごろ見かける石像のお地蔵さんの姿は、いわば仮の形にすぎず、その本体は子どもだったり、大人の姿だったりと在り方はさまざまだ。『地蔵癒し』では、水墨画のように淡く流れる筆致と、やさしく滲む余韻によって、そうした“お地蔵さんの本当の姿”が、なんとも愛らしく描き出されていく。

若然によって元気を取り戻したお地蔵さんは、またその土地で心に元気をなくしてしまった人たちの想いに応え、安寧の日々をもたらしていく……。本作で描かれるのは、ただの“癒し”ではない。人間とお地蔵さんの間に紡がれるのは、どちらかが癒されるといった一方通行の関係ではなく、互いに補い合い支え合うような、優しく、誠実な関係性だ。

なんて美しいヒーリングの物語なのだろう、と思っていた。けれど、読み進めていくうちに気づかされる。この物語が描こうとしているのは、“ヒーリング”ではなく“共鳴”なのだということに。

“目に見えない世界”にそっと加わった新しい色

本作が描いているのはお地蔵さんという存在を通じて、その土地に染み込んだ祈りや記憶と人が、静かに響き合っていく風景でもある。田んぼを守り続けてきた母と息子の想い、港町で人知れず心を傷めている女性の叫び……。ずっとそこに在るのに語られることのなかった“見えない声”たちが、若然とお地蔵さんとの歩みの中で、少しずつ浮かび上がっていく。目には見えないけれど確かな“共鳴”が、物語の底に静かに息づいている。

そしてもう一つ。お地蔵さんに癒しを与えているように見える若然自身も、実は深く癒しを必要とする存在だった。地蔵癒しという行為を通して、彼は幼い頃に負った心の傷と向き合い、病床の父との関係にも静かに向き合っていく。つまり、目に見えない存在たちを癒しているはずの若然の姿を追っていると、癒されていくのは実は彼自身なのだと気づかされる。

――目に見えん世界は、見えとる世界より広い。

この言葉の意味は、決して「異界が広がっている」というだけではない。目に見えない存在たちは、ただ祈りを捧げられる対象ではなく、時に私たちの心の在りようを静かに映し返す鏡でもあり。そして、普段見過ごしてきた自分自身の声にそっと耳を澄ます機会をもたらす。そんな対話の相手のような存在でもあるのだ。

見えるものと、見えないもの。その間で静かに共鳴しながら紡がれていく物語に触れて、私はずっと惹かれてきた“目に見えない世界”に、また一つ新しい色を見つけた気がした。

文/ちゃんめい

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