
撮れ高ゼロのピンチ、さあどうする? それでも「言葉」を求めて【連載・欲深くてすみません。/第39回】
元編集者、独立して丸10年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は、取材での失敗を思い出しているようです。
「今日の取材、撮れ高は十分ですね」
「あの取材は全然だめでした。撮れ高ほぼゼロです」
撮れ高。この言葉が嫌いだ。主に映像メディアで使われる表現だが、ライター界隈でもときどき耳にする。取材相手の話を「これは原稿に使える」「使えない」とあからさまにジャッジしているようで、品がない。
しかも「撮れ高が少ない」と言うとき、ふんわり相手に責任があるようなニュアンスを醸し出す人がいる。「あの人の話には実がなくて、使えるところがなかった」と言うように。なんたる上から目線よ。コンテンツになるように話を訊くのも取材者の仕事だ。限られた時間の中で、いかに相手から言葉を引き出すか。そこに責任をもつのがプロフェッショナルというものである!
はい、ここまで偉そうに書いたところで、私の失敗談を聞いてください。
題して、撮れ高ゼロのピンチがやってきた、の巻。
*
新作映画やドラマ、アニメなどの宣伝で、出演俳優がインタビューに応じてくれることがある。注目作品や人気俳優の場合、多くのメディアが取材に押しかけるため、当日は分刻みで取材が進んでいく。
その日もそうだった。各メディアに与えられた取材時間は10分。スタジオにインタビュアーが列をなし、回転寿司のごとく、中央に座った俳優の前を入れ替わり立ち替わりして話を聞いていく。
10分だ。
10分で、コンテンツになるだけの話を訊かなければいけない。
のんびりと「今回の作品について、脚本を読んだ感想はいかがでしたかー?」なんてやっていたら、あっという間に終わる。しかも、複数のメディアが同時期に、同じ人物のインタビュー記事を公開するのだ。メディアの特性や読者像をふまえて、オリジナルな切り口の質問を用意する必要がある。
ここがライターの腕の見せ所とも言える。他のインタビュアーと被らない、そして、この回答ひとつで記事のメインになるような質問を考えなければ!
作品のテーマは恋愛、取材対象者は人気若手俳優。おそらく、作品のストーリーに絡めて俳優の恋愛観やエピソードを聞き出すような質問が多く寄せられるだろう。しかし、私には別の考えがあった。
その俳優の過去のインタビューを読むと、硬派で、社会的な話題に対しても自分の考えをもっている印象を受ける。そこで、ある社会問題と作品の関連性について私の仮説をぶつけて、俳優の考えに迫るような質問をしてみようと思った。
当日、スタジオに現れた俳優は、明らかに疲れていた。この日は朝から晩まで取材続きなのだ。
他のライターが取材しているところは普段めったに見れないが、何しろ回転寿司の様相を呈しているため、質問の声が遠くに聞こえる。やはり恋愛の質問が多いようだ。しめしめ。待っていてくれ、私がまったく別の切り口から質問を繰り出すぞ!
私が俳優のもとに辿り着いたときには、俳優はぐったりと疲れ、うつむき、長い前髪が覆い被さり、目がまったく見えない状態になっていた。
挨拶もそこそこに、私は用意してきた質問をいきなりぶつけた。
俳優の頭がゆっくりと上がり、前髪で隠れていた目が姿を現した。その瞳が、私の目をまっすぐに見つめる。
「そんなふうにこの作品を観てくれたんですね。初めて、こんな質問を受けました」
……勝った。
何と勝負していたのか知らないが、私は心の中で高らかに勝利宣言をした。さあ、ここからあなたのお考えを存分に聞かせてください!
「……ええと……うーん、ちょっと考えますね」
うん。
うん?
ちょっと考えます?
そして俳優は、ゆっくりと右手を顔のほうに持ってきたあと、その上に顎をコツンとのせた。
ろ、ろ、ロダンの『考える人』だ!
考えるとき、本当に『考える人』の体勢になるタイプの人だ!
などと感心している場合ではない。時間は刻々とすぎていく。
「残り9分」
ライターの私にしか見えない位置で、「残り9分」と書かれたスケッチブックが、ずいっと差し出される。宣伝担当の方が、残り時間をカンペで出してくれているのだ。分刻みのスケジュールなので、少しでも取材時間が延びると、どんどん予定が後ろに倒れてしまう。仕事熱心なのだろう。手がぷるぷると震えており「絶対に押させない」強い意志を感じる。
しかし、俳優は『考える人』のままである。
宣伝担当の方が、震える手でカンペをめくる。
「残り8分」
1分刻みでカンペを作ったのかよ!
などと心の中で突っ込んでいる場合ではない。いきなり小難しくて抽象的な質問をするから、俳優が『考える人』になっちゃったじゃないか! お前のせいだ! このままでは撮れ高ゼロだぞ、どうする私。
「……あー、すみませんー。なんか答えづらい質問でしたよね。ちょっと違う質問をさせていただいてもよろしいですか?」
と、なんとか切り出した。
しかし俳優は、やさしい目で私を見つめて言う。
「いえ、すごく良い質問なので、ちゃんと考えたいです」
うわーーーん! いい人だよう。ここまで言ってもらって「時間がないので次の質問にいきます」なんて言えないよう。
それから俳優が口を開くまでの2・3分を、私は永遠に感じた。
取材を終えたあと、取材用のノートが濡れているのに気づいた。手汗をぐっしょりとかいていたらしい。
俳優からの回答は非常に含蓄のあるものではあったが、今思えば、質問を入れ替えて、もう少し答えやすい質問を冒頭にもってきていれば、記事の充実度は格段に違っただろう。
*
大きな問いをぶつけて、相手が沈黙することは、けっして悪いことではない。その場で言葉にならなくても、あとからじわじわと考えが深まっていく問いもある。むしろ、そういう問いのほうが、その人の中に長く残ることもあるだろう。
問われてすぐ言葉になることよりも、言葉にならないことのほうが、よほど尊い。それは、わかっている。
それでも、有限の中に「言葉」を求めている。木をゆすり、コンテンツになりそうな種や実を拾い集めて、編んでゆく。
どの問いを、どの順番で、どのタイミングで差し出すのか。
「言葉」を求めて、その場を設計する。いきなり大きな質問をぶつけるのではなく、スモールステップで考えを訊いたり、事実や感情のように答えやすい問いのあとにその人の人生観を尋ねたり、といったような流れをつくる。そうして「言葉」によってコンテンツは作り上げられ、世に出ていく。
だけど、本当に覚えているのは、コンテンツにならなかったもののほうだ。私は俳優が何を言ったかを忘れても、その俳優が無言で宙を見つめていた何分かを、けっして忘れない。
そう思っているのに、私は今日も「言葉」を求めて人に会いに行く。
文/塚田 智恵美
【この記事もおすすめ】


