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「なぜ僕は、始める前から諦めていたのだろう」。聖地イタリア・クレモナのプロヴァイオリン製作家/小寺 秀明さん

「ヴァイオリン職人になりたい」。かつてストラディヴァリも工房を構えたヴァイオリンの聖地。イタリアの小さな街クレモナで、高校時代の夢を実現した青年がいる。名前は小寺 秀明さん(30歳)。コロナ禍の2020年、2021年と、2年連続でイタリア国際ANLAI弦楽器製作コンクールで受賞(※)。2022年、イタリアのヴァイオリン製作家協会にプロ登録を果たした。大学を2年で中退し、単身クレモナに乗り込んだ小寺さんの8年の間には何があったのか。現地クレモナへ飛び、話を伺った。

(聞き手/美矢川 ゆき・フランス在住)

ヴァイオリンの製作学校を卒業してもプロになるのはひと握り

――クレモナといえば、ジブリ映画『耳をすませば』で主人公のボーイフレンドの天沢くんが、ヴァイオリン職人を目指して旅立った地ですよね! 街を歩いていると、いたるところにヴァイオリンが飾られているのが印象的です。

小寺 クレモナは、本当に小さな街ですが、現在約157の工房があります。ひとつの工房に職人さんが1人とは限らないので、実際にはもっとたくさんの職人さんがいるんです。例えば僕も、現在は師匠の工房内で開業しています。

ヴァイオリン製作を志す世界中の若者が、クレモナに集まってきます。僕が通ったクレモナ国際弦楽器製作学校も、国籍はバラバラで、日本、韓国、中国から来る人もたくさん。日本にいた時は、ヴァイオリンを作りたいと言うと「ちょっと変わったこと言うな」という感じで、ヴァイオリン作りを目指す同志がほとんどいなかったんです。ところがクレモナに来たら、周りはヴァイオリンを作りたいと思っている人たちばかりなので、刺激的でした。

――ヴァイオリンの製作学校は、プロになるための登竜門なのでしょうか?

小寺 いえ、そうではないです。例えば、お父さんがヴァイオリン職人で、学校に行かずにずっとお父さんの下で働いている方もたくさんいます。完全に実力社会なので、立派な経歴よりも、楽器自体で評価される世界なんです。

製作学校の同期の中で、クレモナで開業したのはおそらく僕だけだと思います。同級生は50人ほどいたのですが、半数以上が途中で学校を辞めてしまいました。僕はクレモナで独立開業することを選びましたが、自分の国に帰って独立開業した人や、工房の従業員として働いているプロの職人もいます。現在、開業を目指している仲間もいます。あと、学校を卒業しても、全員がヴァイオリン製作家になるわけではなく、修理業や楽器店で働く方もいるんですよ。

――厳しい世界なんですね。

小寺 ヴァイオリン製作学校を卒業しても、プロの製作家としてやっていける保証はありません。もらえるのはディプロマ(卒業証明書)だけなので、自分で開業してヴァイオリン製作で生計を立てられた人が、プロとみなされる世界です。僕は外国人なので、イタリア政府に職人として認められて、開業ビザの取得をしなければなりません。手続きには本当に苦労しました。僕は今年30歳なんですが、プロの製作家としては、かなり若いほうだと思います。

――2020年、2021年と、イタリア国際ANLAI弦楽器製作コンクールで受賞されたんですよね。コンクールで賞を取った前とあとでは、何か変化はありましたか?

小寺 おめでとうとは言われますが、そんなに変わることはないです。クレモナには、本当に優秀な職人さんが多いので、国際コンクールでもメダルをバンバン取っていく方がたくさんいるのです。賞は、自分のやってきたことの1つの指標や評価の基準にはなりますが、その程度の感覚です。

それよりも、コンクールでズラッとヴァイオリンが展示されると、他の人の楽器と自分の楽器が並ぶので、製作スタイルの違いを見比べることができます。自分がどういう楽器を作っているか、審査員に何を評価されているのかを客観的に知ることができるのです。一日中ずっと工房で楽器を作っていると、主観が入りすぎてしまうので。自分のこだわりが、周りの人たちからはどう評価されているのかがわかる。コンクールに出場する本当の目的はそこにあります。

(写真提供/小寺 秀明さん)

――コンクールの評価の基準は?

小寺 コンクールでは、ヴァイオリンの芸術的な美しさと音響の美しさが評価されます。審査員は、全部で10〜15名ほどいて、職人とヴァイオリニストに分かれています。職人は木工の美しさやニスの美しさといった作品の仕事具合を審査し、ヴァイオリニストは音響や、弾き心地などを審査します。コンクールでは、楽器に名前を付けず提出し、審査員は楽器そのものだけを見ます。そして審査終了後、すべてのヴァイオリンが展示されるのです。

(写真提供/小寺 秀明さん)

小寺 僕が賞を獲ったコンクールは、国際コンクールですがそこまで大きくないので、100〜120台ほどのエントリーでした。本当に大きいコンクールだと300〜400台ほど出るところもあります。

審査の様子は誰も見られませんが、最後の展示は誰でも入れるんですよ。大きいコンクールになると、ディーラーや楽器商、ヴァイオリニストなど、ヴァイオリンに関わる方たちがたくさん来ます。芸術作品という価値観で、投資目的で購入される方もいます。

ヴァイオリンの値段は、製作家が亡くなったあとにグッと値段が上がるんです。もうその製作家の作品は2度と作られないので。そういう場面を目の当たりにすると、いつか自分の楽器も同じように値段が上がるのかな、と不思議な気持ちになります。

諦めきれなかった夢。ヴァイオリン製作家になりたい

――クレモナで、ヴァイオリン製作家に挑戦しようと決めたのは?

小寺 日本の大学2年生だった9年前、僕は、自分が将来何をしたらいいのかわからなくて悩んでいました。そこで、やりたいことを探すために大学を休学して、ミラノの語学学校に行くことにしたんです。1年間の留学後は、日本に帰国して大学を卒業し、日本で就職活動をする予定でした。でも、それを全部辞めて、ヴァイオリン製作を学ぶためにクレモナに向かったのです。人生の変化の時でした。

――昔からヴァイオリン製作家になりたかったのですか?

小寺 実は、もともと日本の大学に行く予定はありませんでした。高校を卒業してすぐに、クレモナのヴァイオリン製作学校に入学して、本場で学びたいなと思っていました。それで、高校3年生の夏休みに1人でイタリアに行ったのです。クレモナのヴァイオリン製作学校がどんなものなのか見てみたいと思って。職人になるための下見と思っていました。

小寺 でも実際にイタリアに渡って現実を見て、少し怖くなってしまったんです。その時はホームステイをしたのですが、イタリア語ができず、ずっと英語で話していました。言葉の壁や、治安の不安もあって、「僕は1人で海外で生活しながらやっていけるのかな」「ヴァイオリン作りは趣味でもいいんじゃないかな」「仕事にする必要はあるのかな」などといろいろ理由を付けて、結局日本の大学に進学しました。でも、外語大学ではイタリア語を選んでいるんですよね。だから心の中では全然諦めていない(笑)。

――そこから再びヴァイオリン製作家を目指すことにしたのですね。

小寺 大学を休学してミラノに留学していた時は、高校時代から目指していた夢を見失ってパニックになっていました。でも「やったこともないのに諦めている自分がいる」とふと気づいたんです。当時、まだヴァイオリン作りを一度もしたことがなかったんです。やってもいないのに諦めているなんておかしいな。なんで自分はやらないという決断をしているんだろう。これは、一回やってみないとダメだ。もしやってみてダメだったら、それでいいじゃないか。その時は本当に諦めよう、と決めたんです。それが2013年のことだったのですが、次の年の2014年にクレモナのヴァイオリン製作学校に入学しました。

――ご家族は何と?

小寺 両親は「本当に大丈夫なのか」「大学くらいは卒業しておいたほうがいいんじゃないか」とたくさんのアドバイスをくれました。でも僕は、一度その世界に身を浸してみたいという思いがすでに固まっていたのです。とりあえず大学を卒業しておくという逃げ道をつくるのは、今の自分にとって良くない。自分を極限まで追い込んだほうがいいだろうと考え、両親を説得したのを覚えています。イタリアのコンクールで賞を獲った時は、家族がすごく喜んでくれて。自分が嬉しいというよりも、ひとつの結果を見せることができたのが嬉しかったです。

「もう待つ必要はない」学校に通いながらヴァイオリン工房に弟子入り

――クレモナのヴァイオリン製作学校では、どのようなことを学んだのですか?

小寺 クレモナのヴァイオリン製作学校は、5年制です。世界で唯一の国立のヴァイオリン製作学校なのですが、日本でいうところの高校に当たるため、一般科目も勉強しないとなりません。数学や物理など、すべてイタリア語で勉強しなければならず本当に大変でした。

良い思い出がたくさんある大切な場所ですが、実践的なことを学ぶというよりも、歴史や技術的な知識を教えてくれる場だということに気づきました。製作実習の時間が想像より少なくて、正直焦りました。

実習時間は学年によって違うのですが、はじめの2年間は、実習がほとんどなかったんです。週に7時間くらいでした。「こんなに少ないのはあり得ない!」と思って、先生に頼み込んで、実習の多い4年生や5年生の授業に参加させてもらったのです。その時は、まわりの生徒達からあまりよく思われてなかったと思います。僕だけたくさんの授業に出ているので。

――なんだか変なやつが日本から来たぞ、と。

小寺 かなり積極的にやっていました。みんなは仲間だけれど、同時にライバルだと思っていたのです。積極的に動いたもん勝ちだな、と。高校生で夢を諦めたり、大学を中退したり、ずいぶん遠回りをしたので、「もう待つ必要はまったくない。それが将来につながるなら、誰にも遠慮せずにとことんやるしかない」と思っていました。高校卒だと、そこまで積極的になれなかったんじゃないかと思うので、今考えると一度まわり道したこともよかったのかもしれないと感じます。

小寺 2年生からは、学校の授業がない時は工房でも仕事をするようになりました。将来的にいつか開業することを考えると、工房の仕事を学ぶことがとても大事だと思ったのです。

日本の学校のように、卒業後の進路相談があるわけではないので、学校を卒業したらもうそれで終わりだよ、と入学前に言われていたこともあります。それで、在学中から色々な工房に見学に行って、弟子入り先を探していました。

――今の工房を見つけたのは?

小寺 ある時、ヴァイオリン製作学校の5年生に在籍していた日本人の方が「僕の通ってる工房に遊びにおいでよ」と誘ってくれました。その工房こそが、のちに弟子入りした工房なんです。先生のメンタさんは、僕より10歳年上ですが、若手の製作家のなかでも技術が高い方です。先生の作るヴァイオリンは、伝統のスタイルの中にも個性が滲み出ていて、他の人にはない独特のまがまがしい毒っぽさも感じました。そこに魅力を感じ、「この人に教えてもらいたい」と強く思ったのを覚えています。

小寺 工房に何度か見学にいくうちに、「学校で作っているヴァイオリンを見せて」と言われたので、道具を全部持ってアドバイスをもらいに行きました。それをきっかけに、1年生の時から、学校のない日は工房に通い始めたのです。正式な弟子入りは、2年生になってからでした。その時に、自分専用の作業台も用意していただいて。そこから、今もずっとその状況が続いている感じです。

――メンタ先生に伺います。小寺さんを弟子にした理由は何だったのですか?

メンタ先生 彼に目の前で作業してもらった時に「上手いな」「将来、優秀な職人になる素質があるな」と思ったんです。楽器の構え方や、道具の使い方、つまり、手の使い方で素質を感じました。

小寺 そんなこと、普段聞かないので恥ずかしいですが、嬉しいです。

 

僕がこの世を去っても、残した楽器が喜びを伝え続ける

――少し話は遡るのですが、そもそもヴァイオリン製作に興味を持った、きっかけは何だったのですか?

小寺 小さい頃から「いつか職人になりたいな」と思っていたんです。物を作ったり細かい作業をしたりするのが好きだったので。木の枝や父の大工道具で工作を始めると、何時間も集中しているような子どもでした。京都の自然豊かな地域で育ったため、周りには木材があふれていたのです。「将来は、靴職人になろうかな、時計職人になろうかな」と、しっくりくる職業をいろいろ考えていました。

家族はヴァイオリンとは関係なく、父は会社員、母は教師、弟はアメフトの選手です。僕は最初、クラシック音楽が好きな両親の勧めでピアノを習っていました。でも10歳の時に、なぜかどうしてもヴァイオリンを弾いてみたくなったのです。両親に車で送り迎えをしてもらって、片道1時間かけて習いに行きました。ヴァイオリンを弾いている時は、僕にとってこれ以上ないほどの幸せな時間でした。人と一緒に弾いている時には特にそれを感じ、日本の大学ではオーケストラにも所属していました。今もイタリアのパルマという街でときどき演奏しています。

(写真提供/小寺 秀明さん)

小寺 高校生の時に、そういえば、ヴァイオリンも手で作れるなと気づきました。ヴァイオリンは息の長い楽器です。例えばストラディヴァリが1700年前後に作った楽器を、今も弾いている方がいらっしゃるわけです。「これはすごいぞ」と。自分が作った楽器を通して、僕が死んだあとも僕の楽器で音楽を楽しんでくれる人がいるなんて素敵だな。よし、僕はヴァイオリン職人になろう! と決めたのです。

――恥ずかしながら、私にはヴァイオリンはすべて同じヴァイオリンに見えていました。職人の方は、楽器を見たら誰が作ったものかわかるのですか?

小寺 僕も、ずっと同じだと思っていたんです。でも今は、造形を見ると一目で誰のものかわかります。なぜヴァイオリンを見ただけでわかるのかは、2つ理由があります。まず、ヴァイオリンの世界で弟子入りするということは、ヴァイオリンの1つのスタイルを引き継ぐことと言えます。だから、ヴァイオリンを見ると、どこで誰から学んだかがわかるんですよ。

小寺 2つめの理由は、スタイルを引き継いでも、絶対に消えないその人独自の手の癖があるからなんです。個性が一番よく出るのは、ヴァイオリンの持ち手の先の部分です。そこはうずまき状になっていて「スクロール」と呼ばれています。スクロールだけは、どんなに真似しようと思っても、先生と同じうずまきにならないんです。そして、うずまきに関しては、同じにならなくていいんです。なぜなら、楽器のどこかに自分のアイデンティティを含ませないといけないので。スクロールを先生とまったく同じにコピーするのは意味がないのです。

だから、僕はスクロールを見るのが大好きなんです。スクロールの造形をじっと見比べていると、ひょっとすると、自分の見えている世界と他の人が見えている世界はちょっと違うのかなと思います。もしヴァイオリンを見る機会があれば、ぜひスクロールにも注目して見てみてほしいです。

小寺 ヴァイオリン製作の道具は、基本的に何百年も変わっていません。また、ヴァイオリンの製作は分業作業ではなく、最初から最後まで全部1人で作ります。師匠から受け継いだヴァイオリンの伝統や技術、スタイルを伝承し、決して途絶えさせない。そして、そのスタイルを保ちつつ、時代とともに洗練させていくことが僕たち職人の使命でもあります。それがヴァイオリン製作の美しさだと思っています。

――木材選びにこだわりはありますか?

小寺 木を見ていると、あっという間に時間が経ち、良い木を見つけると、ついつい散財してしまいそうになります。ヴァイオリンの表面には、北イタリアのスプルースという木材を使っています。削っていくと、発泡スチロールのように軽くなります。裏面には、一般的にボスニア地方のカエデを使います。虎木(とらもく)と言われる虎のような木目模様がきれいなのが特徴で、ストラディヴァリも同じ地方の木を使っていたんです。

――なんと! ストラディヴァリの時代からヴァイオリンには同じ地方の木が使われているんですね。

小寺 ヴァイオリンは芸術作品としても美しくないといけないので、少しでも欠陥がある木材は買いません。それでも、彫っていると節や虫が出てくることがあって、そうなると使えないのです。5月は木食い虫が発生する時期で、工房に虫が発生すると大変なことになります。なので5月は、木材や作業台を殺虫剤で保護する時期なんです。

――木の選び方ひとつとっても、繊細で奥深い世界なんですね。

小寺 音響に関しての論文もたくさんあって、夜、同じ飲み屋に偶然同席した職人同士で、ディスカッションが始まったりするんです。ヴァイオリンの作り方は数え切れないほどあり、新しい音響技術についてとか、木の話とか、ニスの処理をどうしているかなど意見交換や談義をすることも多いです。クレモナの町には、行くところ行くところにヴァイオリン工房がたくさんあるので、ヴァイオリン製作家にとって、良い環境ですね。

最高のヴァイオリンは、常に次回作

小寺 最後にヴァイオリン本体の「共鳴箱」を閉じる瞬間は、いつも、何かやり残したことはないかなとすごく考えています。共鳴箱を閉じるというのは、封印するというイメージなんです。

僕は楽器を修理する機会もたくさんあるのですが、修理のために100年、200年前の楽器の共鳴箱を開ける時、時空を超えて昔の作り手の思いを感じます。そんな時、もし自分の楽器の共鳴箱が開けられることがあった時、100年後、200年後の人たちにどういう風に見られるのかなということを想像しますね。そんなことを思いながらヴァイオリンの共鳴箱を閉じます。何百年と人の手に渡って生きるヴァイオリンと生活していると、人間の人生が短いというのをすごく感じます。共鳴箱を閉じたら、音を聴いて最終調整です。

小寺 完成してみて初めて、その楽器の音を聞けるのですが、学生の頃は、予想と全然違う音が鳴って悩んだこともありました。色んな先生に相談しに行ったり。でも今は、だいたい想像通りの音が出てくれるんです。最初は先生に言われてもわからなかったのが、5年ほどたった時、音の感覚がわかってきました。

音の表現は本当に難しいですね。なので僕は、調味料に例えるんですよ。マヨネーズとお酢と醤油の味で表現します。その味のバランスが整うようにしたいと思っているんです。

といっても、ヴァイオリンの良い音響は好みなので、人によってさまざまで……。僕は、弾く人にとって、育てがいのある音を作りたいです。

――育てがい?

小寺 ヴァイオリンは、人それぞれの弾き方の癖によって、年月とともに音が変わっていくんです。僕が作り出せる音、つまり新作楽器の音は、木で例えると幹の部分だと思っています。幹から新しい枝が伸び、葉を茂らせ、花が咲く。ヴァイオリンの音も、同じように歳月を経て育っていくイメージです。僕は、弾く人が綺麗な花を咲かせられるようなヴァイオリンの音を作り出せればと思って、日々製作しています。弾く人と一緒に育っていく音を作りたい。なので、好きな音というのは作り出すというよりも、愛情をかけているうちに育ってくるものだと思っています。赤ちゃんを育てるように。

小寺 たまに、「ヴァイオリンに傷をつけてしまってすみません」と修理にいらっしゃる方がいますが、そういう傷を見ると僕はドキドキします。ヴァイオリンが弾き手と共に年を重ね、自然とできる傷を刻みながら歳をとっていく。自分には絶対に付けられない歴史の傷なので。あやまるどころか、そういうのをどんどん見せて欲しいです。

――お話を伺っているとすごく楽しそうですね。

小寺 はい。今が一番楽しいです。自分が思ったように作れなくてくやしい、自分に腹が立つ、という思いはたくさんしたことはありますが。

これからは、もっともっと音楽家の方とのコミュニケーションを積極的に取りたいなと思います。色んな方に、ヴァイオリンを手に取って欲しいです。遠く離れたイタリアで作っていると、どういう方が弾いてくださっているのか把握できないので。「購入しましたよ」と連絡をいただくと、「すごい! この方が弾いているんだ」って思ってすごく嬉しいです。

ストラディヴァリは90歳まで生きましたが、彼の黄金時代は60〜70歳だったと思います。現代の平均寿命が80歳とすると、一般的に50〜60歳が黄金期なのかなと考えています。それくらいの年齢の時に、経験やスキルをすべて注ぎ込めるんじゃないかと。でも同時に、若い時にしか作れない楽器もやっぱりあるんです。いい意味での若さです。だから、その年齢年齢で作る作品を大切にしたいです。

メンタ先生に「自分の最高傑作は、常に次回作でなければいけない」と口癖のように言われます。「常にいい作品を作り続けることが、一番大事なこと。コンクールで評価されるのは一瞬の出来事なので、それは本当に大事なことではないんだよ」と。僕も本当にその通りだと思っていて。ヴァイオリン1本の製作にはだいたい2ヶ月かかりますが、次に作るヴァイオリンは、今ニスを塗っているヴァイオリンよりも、良くなければならないと考えています。常に前を向いて、いい楽器を作り続けることが一番大事だと思います。どんなに良いヴァイオリンができても立ち止まらず、常に次回作を最高傑作にするために。(了)

(※)2021年第12回イタリア国際ANLAI弦楽器製作コンクール・チェロ部門第1位受賞。2022年第13回イタリア国際ANLAI弦楽器製作コンクール・ビオラ部門第3位受賞。

撮影・執筆/美矢川 ゆき
編集/佐藤友美

小寺秀明さん 弦楽器製作家
1992年生まれ。2014年クレモナ国際弦楽器製作学校入学。在学中からアレッサンドロ・メンタ氏に弟子入り。2019年製作学校を卒業後、パルマ音楽院に編入。オーケストラでヴァイオリン演奏をしながら製作活動に専念。製作楽器はヴァイオリン、チェロ、ビオラ。2021年第12回イタリア国際ANLAI弦楽器製作コンクール・チェロ部門第1位受賞。2022年第13回イタリア国際ANLAI弦楽器製作コンクール・ビオラ部門第3位受賞。2022年クレモナにて開業。
A.L.I.(イタリア弦楽器製作者協会)プロフェッショナル会員。関西弦楽器製作者協会会員。
Twitter:@hideakikotera

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