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どう生きるか? その答えはきっと対話の中にある。映画『ぼくたちの哲学教室』

私には3人の子どもがいる。3番目の小学6年生の次男は小学校が苦手で、フリースクールに通っている。フリースクールでは、国語や算数のような「勉強」的な授業はない。子どもたちは過ごし方を自分で決め、行事などは自分たちで実行委員を募り会議をし企画を立てて実行する。次男は学校の授業をほとんど受けていないので、たとえば理科で習うような、植物はめしべとおしべがあって受粉して実ができる、ということは知らない。しかし、会議を早く終わらせるためにメンバーの意見をどのように聞けばスムーズに進むかを考えることができる(会議を早く終えてゲームをしたいからである)。

2番目の長女は公立中学校に通っている。彼女は年相応の学力は身についていて、社会のことや、物事のなりたちや道理についての知識がある。しかし、彼女から授業の内容や学校生活の話を聞く中で、果たして「自分で考える」力が身につくのか、と疑問に思っていた。学校のテストの正解はだいたい1つだし、生徒の意見や不満があっても訴える機会はなく、校則や教師の教えによって抑制されているように感じる。

少し違う環境で過ごす子どもたちを育てる中で、私は「子どもの学びとは一体なんだろう」「知識だけでなく自分で考える力を身につけるにはどうすればいいのか」と考えるようになっていた。

そんなとき『ぼくたちの哲学教室』の試写会のお知らせをもらった。北アイルランドの首府、ベルファストにあるホーリークロス男子小学校で行われている哲学の授業を2年間にわたり記録したドキュメンタリー映画だ。「哲学」には苦手意識があった私だが、なにかこの映画にヒントをもらえる気がして、試写会に参加した。

子どもたちに哲学を教えるのはケヴィン校長。彼の哲学の教室のドアは「哲学っぽく」緑色に塗られ、フェイクグリーンの葉のつるでデコレーションされている。有名な哲学者たちの似顔絵が飾られた教室で、ケヴィン校長は4歳から11歳までの子どもに、年齢に合わせた話し方で哲学の考え方を教える。

哲学の授業では、ケヴィン校長がファシリテーターとなり、子どもたちにボールを回す。ボールを受け取った子どもは自分の意見を言う。その意見を、“コンセプトマップ係”の1人の子どもがボードに書き示す。意見がひとしきり出されたら、“ソクラテスの仲間係”の2人の子どもが、よかった意見や、どうすればもっとよくなるかといった客観的な意見を述べる。

「他人に怒りをぶつけていいか」と問う授業では、「何かされたら殴ってもいい」「やり返さなければやられるだけ」「相手の気持ちを考えるべき」など、子どもたちからさまざまな意見が出されていた。

印象的だったのは、子どもたちが安心して自由に自分の考えを発言していること。自信がなさそうにしたり、恥ずかしがる子どもがいない。だれが何を言っても尊重され、だれもどの意見も否定しない。そこには正解も間違いもない。それは、ケヴィン校長が「どんな意見も尊い」と教えているからだと感じた。

ここで、私は公立小中学校に通っていた自分の3人の子どもたちの授業参観での様子を思い出していた。子どもたちから活発に意見が出る光景は何回も目にした。しかし、ケヴィン校長の哲学の授業と違うのは、そこに必ず答えがあったことだと思う。ケヴィン校長の哲学の授業には、答えがない。子どもたち自身が意見を出し合い、聞き合い、自分なりの答えを見つけようとしていた。「人の意見に耳を傾けることで自分の意見も変わる。それが哲学のおもしろさだ」とケヴィン校長は言う。

なぜ、ケヴィン校長がこの哲学の授業を始めたか。それは北アイルランドの政治・宗教的歴史による。北アイルランド紛争によりプロテスタントとカトリックの対立が続いたベルファストの街には、紛争の記憶と傷跡が残る。一部の武装した組織がいまだ存在し、街全体が今も荒んでいて、少年の自殺率は高く、地域の発展が遅れている。ケヴィン校長は哲学的思考と対話の授業によって、そのような街の負の連鎖を断ち切ろうと挑戦しているのだ。

あるとき、けんかを繰り返す子どもにケヴィン校長が「なぜ同じことを繰り返す?」と聞くと、子どもは「だってパパがやられたらやり返せって言うから」と答えた。そこでケヴィン校長は授業で子どもたちに問う。「やられたら、やり返す、それでいいのか?」「親ではなく、君自身は本当はどう思っているのか?」と。そして授業の中で、子どもを親役、自分は子ども役となって親子の対話のロールプレイングをしてみせ、親に自分の気持ちを伝える方法を教える。「僕はあなたとは違う、僕は僕だ」と親に言っていいのだと教え、子どもたちが自分の生き方を自分で決められるように導く。

ケヴィン校長が教えるのは子どもだけではない。保護者たちが集まる機会を設け、そこで「子どもとどんなふうに話をするか?」と問いかける。ケヴィン校長が保護者たちに伝えた子どもと話すときのポイントは「子どもの話が終わるまで意見を言わないこと」。なぜなら、親が意見を言えば、子どもはそれに従ってしまう。つまり、子どもから考える機会を奪ってしまうからだ。

私の次男は、6年生の春の始業式の翌日に担任の先生に誘われて久々に学校へ行った。その日は「どんなクラスにしたいか作文を書きましょう」という授業があったそうだ。帰宅した次男は「みんなはスラスラ書いていたけど、ぼくは3行で書くことが終わった。どんなクラスにしたいとも思っていないんだ。思っていないことをどうしてあんなにたくさん書かなきゃいけないのかわからない」と言っていた。それを聞いた長女は「書くことがなくてもみんな400字をなんとかしぼりだすんだよ。学校の授業って、そういうもん!」と言い放った。私は「それが次男の意見なら、3行で終わっていいんじゃないかな」と伝えた。ケヴィン校長なら、次男へどんな問いを投げかけて考えを深めるだろうか。

『ぼくたちの哲学教室』を見たあと、「子どもの学びとはなんだろう」と改めて考えてみた。きっと、子どもたちが学び、考える力をつけるには、親である私自身が子どもと対話を続け、一緒に考え続けることを諦めないことなのではないか。親子でともに語り合い、学び合う中で、お互いに自分らしい生き方を見つけられたらとてもいい。これまで「哲学は難しそう」と苦手に思っていたけれど、案外、日常を生きることにつながっているのかもしれない。

文/早川 奈緒子

ぼくたちの哲学教室

2023年5月27日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開

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