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ちゃんめい

「え! まだ怒ってるの?」と言われがちな私。『水は海に向かって流れる』が教えてくれた“怒り”と“許す”の狭間にあるもの【連載・あちらのお客さまからマンガです/第8回】

「行きつけの飲み屋でマンガを熱読し、声をかけてきた人にはもれなく激アツでマンガを勧めてしまう」という、ちゃんめい。そんなちゃんめいが、いま一番読んでほしい! と激推しするマンガをお届けします。

「え! まだ怒ってるの?」にモヤモヤする

突然だけど私はすごく怒りっぽい。いや、もう少し詳しく言うと怒る頻度は少ないけれど一つ一つの怒りが深くて長いタイプ。これまでの人生で「え!  まだ怒ってたの?」と何度周囲から笑い混じりで言われたことだろう。最近では、「アンガーマネジメントって知ってる?」もセットで言われるようになりました。

ちなみにアンガーマネジメントとは、自分の怒りを客観視することで怒りを適切にコントロールして問題解決を図る……というものらしいのですが、そりゃ周囲に当たり散らしたり、害を与える場合は取り入れた方が良い。でも、私みたいに静かにずっと一人で深く、長く怒っている場合は? 問題解決ってなに? そんなシステマティックに私の怒りをいなしたり、セーブしようとすんな! とまた新たな怒りが生まれてしまうのです。

みなさんはどうですか? 同じようなモヤモヤを抱えている人はいませんか?

前置きが長くなりましたが、要するに“怒り”という感情に囚われるな、うまく付き合え、なんなら解消しろ……そんなことが美徳とされる空気感がやんわり横行しているこの世の中で、田島列島先生の『水は海に向かって流れる』というマンガだけは違うのです。全3巻を通してずーっと“怒り”を丁寧に描いてくれるのです。

“怒り”が行き着く先を描く『水は海に向かって流れる』

本作の主人公は、高校進学を機に叔父さんが暮らすシェアハウスで生活をすることになった直達くん。そこで彼が出会ったのが26歳のOL・榊さんでした。今まで接したことがない“大人の女性”かつ、常に物憂げな表情を浮かべる榊さんに出会って、直達くんは次第に心惹かれていきます。

でも、この二人、実はものすごい因縁関係にあるのです。それは、直達くんの父親と榊さんの母親はかつて不倫関係にあったということ。つまり互いの親はW不倫の相手同士だったというわけです。直達くんの父親は、不倫の果てに家庭へと戻り現在に至りますが、榊さんの母親は違う。まだ16歳だった榊さんを残して、そのまま姿を消してしまいます。

不倫の末に自分を残していなくなった母親のことをどうしても許せない榊さん。しまいには不倫の理由を「恋をしたらあなたもわかる」と言い放った母親へ反発するかのように、彼女はそれ以来「恋をしない」と自分に課し、パートナーを作ることなく独り身を貫きます。

そんな榊さんに淡い恋心を抱きつつ、不倫親の子供同士という同じ業を持つ者として「彼女が背負うものを僕も半分持ちたい」と願う直達くん。彼目線で本作を見ると、年上女性との少し複雑な恋愛ドラマとして捉えることができます。だけど、榊さん目線で物語を見つめると少し違います。

物語の冒頭では「怒ってどうするの 怒ってもどうしょもないことばっかりじゃないの」と言い、母親への怒りに蓋をして表面的には平穏に暮らしていた榊さん。でも、直達くんと交流していくなかで、彼女は再び怒りを再認識していくのです。「あぁ、私は怒っていたんだ」「この怒りは母親と会えばなくなるのか?」「でも、本当は誰に対して怒っていたのか?」と。そんな自身の怒りを、時に荒ぶりながらも咀嚼していく榊さんに注目すると。『水は海に向かって流れる』は1〜3巻に渡って一人の人間の”怒り”の行き着く先を描く……重厚なヒューマンドラマとして読み解くことができます。

怒ると許すの狭間で見えたもの

母親への怒りに囚われて「恋をしない」だなんて、そんな自分の幸せを狭めることは勿体無い!  と。もしも私が榊さんの友人だったら彼女にそう言うかもしれません。でも、これは冒頭でお話しした「え! まだ怒ってたの?」と似たような発言なんですよね。榊さんにとって恋とは、かつて「恋をしたらあなたもわかる」と言い不倫に走った母親への怒り・トラウマの象徴。だから、もしも「恋をする」なんてことをしてしまったら、それらを放棄して受け入れてしまう……つまり全てを「許してしまう」ことになるのです。

その後、榊さんは直達くんやシェアハウスの住人に導かれるように、最終巻となる3巻で件の母親と再会を果たします。当然、榊さんは怒るのですが、その時に母親が言うのです。「ずっとこの先も そうやって怒って生きてくの? 」と。

榊さんのことを思うと心がスッと冷えていくような、なんとも衝撃的なセリフですが、母親との再会シーンを経て読者は気付かされるのです。あぁ、榊さんの怒りとは単なる恨みつらみの憎悪だけではなく、もう怒ることでしか母親と繋がることができない……彼女の悲しさ、不器用さの現れでもあったのだと。

そんな榊さんの16歳から続く、深く、長い怒りを3巻に渡り見届けて気づいたことがあります。それは、怒ると許すの狭間には、人の怒りの数だけ複雑な感情の機微が張り巡らされている。だから、許さない即ち怒ると、許すの二択で片付けられるほど単純な感情じゃないということ。そして、怒りには、その根源や対象である他者ではなく、自分でも気づいていない、あるいは自分で無理やり蓋をしてしまっているのかもしれない……そんな“自分”が潜んでいることがあるのだと。

この怒りがいつか雑音になるまで

榊さんの怒りの中には、怒りの対象である“母親”をベースにいろんな“私”が存在します。母親のことが大好きだった幼少期の私、不倫によって母親が大嫌いになった16歳の私、心にしこりを残しつつも割り切っている大人の私……。そして、一つ一つの私には、母親に見捨てられた悲しみ、裏切られた憎しみ、自分が「恋をしない」ことで母親に罪悪感を抱かせたいという歪んだ思い、そんな幾重にもかさなったこじれた感情が詰まっているのです。側(はた)からみると榊さんの怒りは「母親に捨てられたから」という一つの理由でくくられてしまうものかもしれない。でも、実は彼女の怒りは先ほどあげたような幾つもの“自分”、そしてそれに紐づく“感情”で構成されているものなのだと。

私の、あなたの、深く長い怒りの中にはどんな自分、感情が潜んでいるのだろう。

そう考えると、私の、あなたの“怒る”と“許す”の狭間を何も知らん人(まぁ、側からでは知り得ないことだけど)が言う「え! まだ怒ってたの?」なんて言葉は野暮だと思うし、むしろ上等だよ! って言いたくなる。この怒りは絶対に簡単に手放しちゃいけない。だって、榊さんは直達くんという理解者に支えられながらも、怒りに潜む自分を一つ一つ迎えにいった。その結果、“水は海に向かって流れる”ごとく、怒りと共に新たな運命に向かって身を委ねて生きていくのだから。

「右手に雑音 左手に約束 もうどこへも行けないような気分はおしまい」。終盤で榊さんが心の中で呟くこのセリフが、私の中にいる深く、長い怒りを優しく抱きしめる。やっぱり私は誰になんと言われようとも、この怒りがいつか雑音になるまで、とことん付きあってやろうと思う。

文/ちゃんめい

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