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何を言うかではなく「どう言うか」に人が出る。表情のある文章をどう書くか【連載・欲深くてすみません。/第17回】

元編集者、独立して丸8年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日はインタビュー原稿を書くとき、その人の言葉の使い方の“らしさ”をどのように再現するかを考えているようです。

だいたい私が恋をするときは、人の言葉運びに惹かれるところから始まる。

同じことを言うにも、どう言葉を選ぶか。リズム、漢語や外来語、和語のバランス、語尾の味わい、びりっと効かせた皮肉に、ふわりと包む心配り。そういう話の本筋ではないところに、たまらなくその人を感じて惹かれる。

インタビューでもまったく同じで、何を話されるかより「どう話されるか」にその人らしさを感じてキュンとかズキュンとかドッカーンとなる。であればその感動を原稿でも再現したい。2024年時点のAIが要約したようなツルツルのっぺらぼうな文章にしてしまうのではなく、その人らしい表情の見える文章を書きたい。

の、だけれど、これがなかなかどうして難しい。

最近、短期間で7名のインタビュー原稿を書いた。経営者や俳優、学者にクリエイター。それぞれ、職業も年齢もキャラクターもまったく違う人たち。

インタビューの音声を聞きながら、直接会って話を聞いたときのことを思い出して書く。抑揚、語気の強さ弱さ、こういったものからも、その人らしさを感じる。ズキュン。しかしこれを文章だけで表現するのは至難の業だ。とくに一人称の原稿では客観的な説明や描写ができないので、ちょっとしたところに語り口の生々しさを潜ませたい。

と思うとき、悩ましいのが方言である。標準語には訳せない、微妙なニュアンスをはらんでいることも多く、その人らしさを表現するにはぜひとも残したいものだ。しかし文章上で内容を再構成するとなると、方言はすごく厄介である。

以前、関西弁でお話になる方をインタビューしたとき「この方のお話は標準語にしたら台無しだ」と思ったことがある。神奈川県出身のわたくし、ここは何としても関西弁を生かした原稿をと、文字起こしとにらめっこして方言の法則性を研究。どのとき「やん」で、どのとき「ねん」で、どうすれば「やねん」になるのか分析したところ、なんとルールらしきものがわかったような気がした! 意気揚々と原稿を提出。インタビュー相手の確認を終えて戻ってきた原稿を見ると、語尾だけすべて赤字で直されていた。そりゃそうだ。

言葉はその土地で、その人の身体で息づき、生活や思考と癒着しながら育まれていく。他所者がちょっと外側を撫でたくらいでは到底インストールできないものがある。

しかしライターによっては「イタコのようにインタビュー相手を降ろして書く」と語る人がいる。どうしたらそんなことが? 一体どこから降りてくるのだろう? 今のところ私には降ろしたり上げたりはできないが、話し手の言葉運びやしぐさを脳内で追い回しているうちに、話し手と自分との境界線が曖昧になって、混ざるような感覚になることはある。

いつか自在に降ろせるようになるだろうか。

ついインタビュー相手にばかり夢中になってしまう私だが、文章を書くときの言葉運びはこういうところからも決まるんだな、と考えさせられた出来事がある。

かなり前だがビジネス誌で、とある分野の専門家にインタビューしたときのこと。私が書いた原稿を見て、編集者のAさんが「この人の発言では、語尾に『〜でしょう』という言葉を絶対使わないでください」と言った。

え、なんで? インタビューでご本人が「〜でしょう」って言ってたのに?

と質問すると「私たちはこの人を、その道のプロフェッショナルという立場でお呼びしてインタビューしているのですから、記事では曖昧な言い方をさせずにしっかり言い切らせてほしいんです。語尾に推量のニュアンスが入ると、専門家としては自信がないように見えます。それでは読者は信頼しないです」とAさんがおっしゃる。

なるほどなー! 私は納得した。

ところが別のメディアで、生活に関わるテーマで専門家にインタビューしたときのこと。私が書いた原稿を見て、編集者のBさんが「この人の発言、もう少し語尾を柔らかくできないでしょうか。『〜でしょう』のような表現を使ってみては」と言った。

え〜、別のメディアでは、専門家は「〜でしょう」って言わないって聞いてますけどぉ。

と思いつつ、まるで自分が思いついた考えのように「ここはプロの立場でちゃんと言い切ったほうが読者に信頼されるのではないでしょうか!」と反論。

するとBさんはじっと原稿を見つめて「……でも、なんか、文章で読むとちょっと偉そうに見えて。もっと読者に寄り添ってほしいの」とおっしゃった。

な、な、なるほどな!! 私はこのとき、メディアの特性に合わせて記事を書かなければいけない人間として、ものすごく重要な気づきを得た。

Aさんは、読者に信頼されるメディアとして、そこで語られる専門家の言葉には「〜でしょう」という語尾を使わないでほしいと言う。Bさんは、読者に寄り添うメディアとして、そこで語られる専門家の言葉に「〜でしょう」という語尾を使ってはどうかと言う。

つまり、おふたりの編集者さんは真逆のことを言っているようで、まったく同じことを私に言っている。メディアと読者の関係性をふまえた言葉運びをしてほしいということだ。

言葉運びには「その人」だけでなく「関係性」があらわれる。一対一で話をするときには話し手と聞き手というシンプルな構造だが、メディアでインタビュー記事を書くときには、話し手に聞き手(=書き手であるライター)、そこにメディアや、最終的な届け先である読者が加わる。メディアが読者と紡ぎたい関係性によって、話し手の語り口は微妙に調整される。

媒介者の身体を通り抜けるたび、言葉はどうしたって少しずつ形を変える。

メディアを通さなくても、誰もが直接読者に語りかけられる時代である。「原文そのまま」で伝えるならライターは要らない。どうせなら「この人の身体を通したほうが、“私”が(その人が)伝わる」と思われる書き手になってみたい。

イタコ業界にだっておそらく「霊のみなさんが選ぶ『どうせ降りるならこのイタコに降りたい』ランキング」とかあると思う。ランキング1位の座を狙う。

文/塚田 智恵美

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