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読まない人ですら影響を受けている。本から始まる幸せの連鎖。『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』

尊敬するノンフィクション作家、著書を何冊も出している憧れのベテランライター。そうした書き手の人たちがX(旧Twitter)で、この本を手放しで絶賛しているのが気になって手に取った。

『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』は、2023年9月に発行された本で、私が手にした2024年5月はすでに発行から8〜9ヶ月は経っていた。けれど、本というものは、たいてい手にしたときがその人にとってのベストタイミングなのである(と私は思う)。読み終わってみたら、まさに今の私がほしい言葉ばかりが載っていた。これは、私のために書かれた本だと思った。

小説の舞台は、ソウルの住宅街ヒュナム洞にオープンした、小さなブックカフェ。会社を辞め、子どもの頃からの夢だった書店をオープンさせたのが、30代後半の女性ヨンジュである。たった一人で細々と始めた書店に、コーヒーを淹れるバリスタのミンジュンが加わり、常連さんもちょっとずつ増え、書店が少しずつ街になじんでいく様子が描かれる。

子どもの頃、私は本屋さんに「住みたい」と思っていた。そうしたら一日中好きなだけ本が読める。なんてお気楽に考えていたが、若者が本を読まなくなったといわれる今、デジタル化も進み、本屋さんを取り巻く環境はとても厳しそうだ。実際、本屋を開いたヨンジュも、アルバイトを雇うとき、「この本屋、二年しか続けられないかもしれません」と断りを入れている。それでもお客様に来てもらうため、本を売る以外に読書会やライティング講座を開くなど、ヨンジュは孤軍奮闘する。

ある日の読書会で取り上げられたのは、デイビッド・フレインの『働かない権利』(原題 The Refusal of Work: The Theory and Practice of Resistance to Work)。その本を読んで、何を感じて、どう考察したのか。ヨンジュはこんなことを言っていた。「仕事がわたしたちからあまりにも多くのものを奪っているのが問題なんですよね」。続く、本から抜粋された一文。

「自分の時間の大半を、働いたり、仕事で奪われた気力を回復させたり、働くために金を使ったり、職を探し準備し持続するのに必要な無数の活動に消耗したりしているわれわれは、いざ自分のためにどのくらい時間を使っているのかという問いには、だんだん答えられなくなってきている」

本屋という仕事は、確かに楽しい。でも、仕事が人間を消耗させてはならないという考え。ヨンジュが本を読み、思考を深めるように、私もこの物語を読むことで、思考を深める。劣悪な労働環境で、一度は会社を辞めたヨンジュが、自分の暮らしも大切にしながら、いかに本屋を続けていくかに取り組む。その過程は本屋の運営とか、働き方というより、まるで自分の人生をどう生きるか、模索しているようだった。どう働くかはすなわち、どう生きるかに直結する。

このように書店が舞台とあって、物語にはいろいろな実在の本、映画やドラマが登場する。作中で実在する本の一文や映画のワンシーンが紹介され、登場人物はなぜその部分に心を動かされたのかを語る。お話を読み進めながら、私も彼らと同じように読書し、映画を鑑賞し、心動かされたような感覚になってくる。だからこの本を読み終わった後は、何冊もの本を読み、映画鑑賞をしたかのような、深く濃い充実感があった。

「ピアニストの人生を諦めたのではなく、ピアニストではない人生を選択しただけだ」

「どんな展望もほんの些細なことから始まるの。そしてついには、それがすべてを変える。たとえば、毎朝あなたが飲むりんごジュースとかね」

「いい人が周りにいる人生が、成功した人生なんだって」

「いい文章ってのはどれも大差ないんだって。いいか、おまえ。俺が何かの拍子に有名になるとするだろ? そしたらみんなそれまで以上に、俺の書いたものをいい文章だっていうはずだぜ?」

『ようこそ、ヒュナム洞書店へ』には、心に留めておきたい言葉がたくさんあって、私はその都度付箋を貼り、「この本によって私の人生は確実に変えられてしまうだろう」と思った。そうだ、本にはそれだけの力がある。

登場人物はヨンジュをはじめ皆、なにかしら社会や家族との関係に悩む、訳ありな人たちだ。でも、物語が進むほどにみんな少しずつ幸せになっているように感じた。問題がきれいに解決するわけではない。とはいえ、少しずつ良い方向に進んでいる、確実に。たぶんそれが本のもたらす作用ではないかと私は思う。目に見えて分かる変化ではないが、じわじわと後から効いてくる。

本屋さんを軸に、本を読む人たち、読まない人たちですら、そこに集まる人たちが何かしら、本から影響を受けているのが伝わってくる。本を取り巻く世界の、あらゆる魅力がギュッと凝縮して表現されている物語。最後のページには、本でコミュニケーションし、本で冗談を言い、本で友情を深め、本で愛を繋いでいく……という表現があった。まさに本と本屋さんの持つ力を思い知った気がした。

ところで、私は最近本屋さんに住みたいという夢を半分だけ叶えた。京都にある古い洋館の一室を借りていたのだが、最近そこを「私設図書室」としてオープンしたのだ。部屋には自宅にあった約400冊の本を並べてある。本と本棚と机と椅子だけがある、本を読むための空間。

実はこの部屋を借りたのはもう1年前のことで、どう活用したらいいのか正直、持て余していた。けれど、この本に出会った瞬間に閃いた。私もここでヨンジュのように、読書会を開いたり、ライティング講座をしたらいいのではないか? そう思ってまずはオープンしてみた。本を読んだことで、私の人生はちょっと動き出した。やっぱりこれは、私のために書かれた本だった。

そう思わせる本との出会いこそが、本を読むことの醍醐味であると思うし、その醍醐味を物語で表現するならば、このお話になるのかもしれない。

文/江角 悠子

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