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折れるな。病むな。アイツが現れたらすること、それは書き写し【連載・欲深くてすみません。/第4回】

元編集者、独立して丸7年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は原稿を書こうとパソコンの前に座ったものの、指が動かない自分に悩んでいます。

書ける気がしない。

かれこれ1時間、パソコンの前で固まっている。憂いに満ちた横顔はきっとまるで文豪のそれ。

しかし作家っていうのはすごいもんですね。無から有を生み出す。ところで、いま私の机の上には、記事の方向性が書かれた企画書、取材時に録音した音声データの文字起こし、そこから重要なポイントを抜き出したもの、記事の構成案がある。いまから書こうとしているのは2000字のインタビュー原稿。構成案に沿って書けば2000字なんてあっという間だ。つまり、無から有どころか、原稿は7割がた、すでにできている。

これで書ける気がしないと言っている人の気がしれない。

だけど私は、書ける気がしない。つまり、いま私は、自分の筆力で手がつけられるかどうかわからない、何か言葉にしがたいものを書こうとしているということである。

取材に行くと、びりびり体が痺れるような瞬間がある。「納豆を食べると体にいい」みたいな、すぐに役立つ話じゃない。白か黒か、右か左かとわかりやすく分類できるものでもない。複雑で、柔らかくて、手ですくおうとしたらほろほろと溶けてしまいそうな、でも、ああ、これを知る前の私と知った後の私はきっと別の生き物になっている、と感じるようなこと。いま、私がこの心で捉えたものを、この場にいない人にも伝える。それ以上に誉な役割が私にあるだろうか。おへその下あたりがじんわり温かくなる。

書きたい。

そしてひたすらこねくりまわして出てきた言葉が

「なんかすごかった」

辞めちまえライターを! いますぐに!

どれだけ心が震えようとも、いや、心が震えたときこそ、指先がキーボードを叩いて出てきた言葉が、心の感じ取ったものを超えることはない。

よく編集者さんからの赤字や、読者さんからの辛辣なコメントを読んで心が折れたと話すライターさんがいる。ふしぎに思う。そこに至るまで折れないってことですか? 私、一番心が折れるのは自分が原稿を書いているときですよ。あれだけ複雑で豊かに感じたことが、Wordの上に書いたらまあ陳腐。まあ単純。どんな原稿も書きさえしなければ傑作だけど、悲しいかな、書いたら形になってしまう。結果、他の人から何を言われてもほとんど気にならない。自分という読者が一番辛辣だから。

と、書いていて思い出したのだけど、以前、こんな話を聞いたことがある。

「良し悪しがわかる」と「できる」には時差がある。

文章なんてみんな似たようなものに見えている段階から、さまざまな文章に触れることで、良い・悪いの違いがわかるようになる。たとえば、良い文章は「文章の書き出しで、印象的に読者を惹きつけている」と「わかる」。しかし、自分がそれを「できる」ようになるには鍛錬が必要だ。その間には、まるで時差のようなラグが生じる。

わからないうちはいい。しかし「わかる」けど「できない」時間は、己の中に口の悪い批評家が現れるようなものだ。「なんでわかっているのにできないんですか?」と逐一自分を批判しにくる。この間にメンタルをやられてしまう人が大勢いる。いまは時差による遅れの最中だと思って辛抱強く耐えろ、というお話だった。

「気づく」と「言葉にする」の間にも、この話と似たようにラグがあるのかもしれない。鍛錬したり経験したりすることで、少しずつ言葉が心に追いついていくのだろうか。だけど、心が何かを気づいてうずうずしているのに、それを書けない時間はやっぱりつらい。

ビールいかがですか?

突然、心に売り子がやってきた。ビールかあ。ビールいいよね。シュワっとしておいしいよね。飲んじゃおうか。書けないんだもん。一口飲んでみようよ。いいじゃん、もう書けなくても。できないことをやろうとしてたんだよ。そんな難しいこと考えなくても、2000字なんてさらっと埋まるって。書けることだけ書いて提出しちゃいなよ。さ、その景気づけに一杯どうぞ!

と手を伸ばす前に、私はあることを試している。

書き写しである。

名文を書き写す文章トレーニング法がある。よく聞くのは受験の小論文対策のために、新聞のコラムを書き写すこと。その有効性についてはいろんな意見があるだろう。余談だが、たしか私が小学生のとき、名作文学をひたすら書き写す宿題があった。私に限っていえば、多少忍耐力がついたこと、世の中の理不尽を知ったこと以外にはさほど効果がなく、しばらくの期間、本全般を憎むことになった。

私のしている書き写しは、文章力を高めるためのものではない。

まず、書き写す文章を選ぶ。これは、これから書く原稿の種類によって変わる。インタビュー原稿なら、以前に自分が読んですばらしいと思ったインタビューの文章から何か一つ選ぶ。エッセイっぽい文章、小説タッチの文章など、このあと書く原稿の雰囲気に近いものを選ぶといい。日本を代表する文豪の文章でも、昨日読んだウェブ記事でも、自分が読んで感動した、こんなのどうやって書くんだと震えた文章であればなんでも構わない。

それから15分くらい、自分が原稿を書くために開いていた文章作成ソフトに書き写す、というか打ちこんでいく。手書きである必要はないし、手書きでないほうがいい。

大事なことがある。半目だ。半目でパソコンの画面を見る。ボケっとした、できるだけアホそうな顔で。口も半開きがいい。何も考えずにただ書き写す。

そのうちにこのように思えてくる。

この素晴らしい文章は私がいま、まさに、書いているのだ。

この指がいま、ここで、生み出したのだ。

……バカだと思いました? そうですか。私は書いていてバカだと思いました。でも、書き写しをしている間は思ってはいけません。信じるものは救われる。なんだって信じることが大事である。

脳は、想像したこととやったことの区別がつかないという。それなら指だって、自分が書いたものと他人が書いたものの区別がつかないのではないか。己の指に成功体験を積ませるつもりでひたすら書き写す。

15分くらい書き写したら、書いたものをわーーーっと消してしまう。そして、まるでさきほどの続きを書くかのようにして自分の原稿を書き始める。

少しだけ気分が変わっている。

ほんのちょっとだけ、書ける気がする。

それでいい。それ以上のことは期待してはいけない。これが現在の自分の筆力で書けるすべてだと思って、そのあとは一気に書き進める。

自分が素晴らしいと思う文章の構造を分析したり、文体やリズムをお手本にしたりするのは、文章力を高めることにつながる。だけどひとつ間違うと、優れた文章やその書き手を上に置き、そのようにはすぐに書けない自分、言葉が心に追いつかない自分を下に置いて、上下関係をつくり己を卑屈にする。

尊敬する書き手がたくさんいるが、その人たちを神棚に祀って拝んだ時点で、私はその人たちのようには書けないことが決定するだろうとも思う。私にとってこの書き写しは、優れた書き手たちを神棚から引きずりおろし、自分の指に降臨させるおまじないだ。

そして己に言い聞かせる。その人もきっとこうやって書いたんだ。こうして一文字一文字、書くしかなかったんだ。

己の中に現れる口の悪い批評家は、ひとつできるようになっても、理想が生まれるたびに再び現れ、増殖し、できない自分を罵り続ける。

黙らせるには、どうすればいいか。

「できる気がする」

どんな方法でもいい。よくわからないけどできる気がする。そう思って書く。書き切る。書き続けるしかないのだ。

あと、私に宿る批評家はビールを飲むと機嫌良く踊り出す性質がある。ビールっていいよね。シュワっとしておいしいし。そろそろいいですかね。じゃ、一杯いただきまーす!

文/塚田 智恵美

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