飲み込んでいたのは食べ物だけじゃなかった。『スローフード宣言』が問いかける、幸せの価値観。
“WE ARE WHAT WE EAT”
私たちは食べたものでできているって? はいはい、わかってますよ。だってポテトチップスを食べた翌日には決まってニキビができるし、みかんが好きな友人の手は私のより黄色いもの。だから健康のためにカラダに良いものを食べましょう、的なこと言うんでしょ。
そんな気持ちでアリス・ウォータース著『スローフード宣言 食べることは生きること』を読み始めた。
全く次元が、違った。おかげで知ってしまったのだ。ファストフード店のハンバーガーと一緒に、私が飲み込んでいたものの正体を。
「ファストフード文化」の価値観。
本書は大きく分けて二つのパートで構成されている。「ファストフード」と「スローフード」だ。この二つは料理や食事のカテゴリーではなく、「概念であり文化」として語られる。
ファストフード文化を要素分解すると、本書では次のように定義される。
「便利であること」
「いつでも同じ」
「あるのがあたりまえ」
「広告への信頼」
「安さが一番」
「多いほどいい」
「スピード」
ファストフードを選択することは、「いつでも・簡単で・スピーディーに得られるべき」という価値観を、自分の中に無意識に植えつけることだ、と本書は言う。
章を読み終えて気づいたことだが、さほど価値が見出せずに近年、私が自分の生活でやらなくなったあれやこれはすべて、「ファストフード文化」的なサービスだった。
たとえば、倉庫型卸売スーパーに行かなくなった。二十代の頃、デートの一環で何度か訪れては人気のパン・オ・ショコラや大容量のキッチンペーパーを買って帰った。確かに美味しいし品質も申し分なかった。けれどパートナーとの二人暮らしでは、食べ切るのに数ヶ月かかった。冷凍庫はいつもパン・オ・ショコラでいっぱいだった。大量のキッチンペーパーは、もったいないと感じることを忘れて容赦無く使っては捨てていた。食べても食べても、使っても使ってもなくならない。店で商品を選びカゴに入れていく行為は、それ自体がアトラクション的で楽しい。だが、身の丈を超えた量は、食べることや使うことへの慎重さが失われる。
デリバリーフードのサービスも利用は一時的だった。足を怪我して外出できなかった時期が数年前にあって、その時は指先でスマホをタップするだけで食事が届くことが便利でありがたかった。けれど結局は、レストランに足を運んで食べることほどの魅力を感じられなかった。店の奥からオーダーした皿が運ばれてくるあの高揚感や、初めて食べる料理から意外な食材の組み合わせを発見する喜びに出会う確率がずっと低かったから。
食べ放題のブッフェに行かなくなったこともひとつだ。あらゆる料理が並ぶブッフェは一見魅力的に見える。けれど実際入店すると、食事のバランス感覚を忘れて「どこまでモトを取れるかゲーム」になってしまう。満腹にはなっても、心の満足は得られなかった。どの皿も空になることはなく、いつでもお客さんが選べる状態にしてあるブッフェのあたりまえの光景は、腹が膨れていくにつれ、皿の料理を料理ではない別のもののように感じてしまう自分がいる。どうにも後味の悪いことに気づいて、ブッフェを避けるようになった。
これらに共通するのは、ゴミの存在だ。
大切に使わないキッチンペーパーも、デリバリーの容器も、常に山盛りの料理も、便利で手軽だけれど、生まれるゴミと引き換えにするほどの満足感を、私は得ている実感はない。
もうひとつ思い出したことがある。高校に進学してからの数年間、ファストフード店でアルバイトをしていたことだ。今思えば異常な環境だった。レジも厨房も、いかに早くいかに効率的にお客さんを捌くかが全てだった。3分間でトレーを何枚拭き上げられるか、1分以内にセットメニューを提供できるか、15秒でチーズバーガーを作れるか。そんなことを従業員全員が常に考えていて、クリアした人には金色に輝くピンバッジが会社から与えられた。どれだけテキパキ動けるかが評価のすべてだった。アルバイトの時間を終えてトイレの鏡で口の中を覗くと、いつも舌の両脇には赤黒い歯形がついていた。息をすることも忘れ、食いしばりながら働いていた。時々、アメリカの本社から検査官がやって来て、商品の品質は保たれているか、スピードとサービスは適切か、そんなことをチェックしていた。
今思えば、これぞまさに「ファストフード文化」。安くて、速くて、いつも同じ味。それを成し遂げるためには農業も酪農も工業化され、効率的な品種だけが使用される。個性も旬も不要で、大量生産に都合のいいものだけを選択する。そんなことが世界中で起こっている。それが「ファストフード文化」であり、私たちが気軽に選び、飲み込んでいる概念だ。
「スローフード文化」の価値観。
一方で、「スローフード文化」の価値観は次の要素から成る。
「美しさ」
「生物多様性」
「季節を感じること」
「預かる責任」
「働く喜び」
「シンプルであること」
「生かしあうつながり」
自分が「スローフード文化」を選択している自覚は、本書を読み終わった後もさほど湧いてこなかった。けれど以前、ひとりでふらりと入ったスペインバルで、生のホワイトマッシュルームとセミハードタイプのチーズがスライスされたシンプルな一皿を食べたとき、食材の風味を楽しむこんな料理が大好きで、オリーブオイルと塩とニンニクだけで満足できる自分を発見したことを思い出した。そして「スローフード文化」の章で心に浮かんだのは、母のことだった。母の作る昼食は、カットしたトマトとセロリの葉が少し入っただけのスープ。玉ねぎとベーコン、レタスはオリーブオイルと岩塩だけで味付けされていて、ソテーしたチキンにはバジルが添えられている。定番な気がするけれどいつも少しずつ違っていて、手の込んだ料理ではないけど新鮮で十分美味しい。私のルーツにスローフードはしっかり結びついていて、それはこの人から受け継いで、この人に育てられたからなのだ。
旅に出よう。
「食べることを軽視してるんじゃない?」と、本書を通して問いかけられている気がした。どんなに少なくても、一日に一度は食事をする。食事は、単にエネルギー源としてモノを口に運ぶことではない。考え方や生き方、なにを大事に思うか、なにに幸せを感じるかを選ぶことだ。そしてなにを食べるかに思いを巡らし、足を運び、食材を見て、会話をし、新鮮なものを美味しく食べるまでが食事になる。
安くて・便利で・あるのがあたりまえの食事を選ぶことで失った、料理する喜び。「料理は苦役ではない」と本書にはある。人々は時間が欲しくてたまらなく、そのために便利なものに頼った結果、料理は苦役になってしまったのだ、と。本来は五感で食材と向き合い、味見して、調整して、学び、自分や誰かのお腹を満たす行為には、誇りと満足が伴うものなのだ。
スローフード文化における料理は、なんだか「旅」に似ているな、と思った。自由で気ままで冒険があるひとり旅。ならばファストフード文化はまるでテーマパークだ。画一的なサービスと一律の笑顔、クオリティが担保されていて、そこに驚きはほとんどない。
私は冒険がしたい。特別な出会いもハプニングもある、そういう旅を求めて、キッチンに立ってみるのも新鮮だ。
文/ささき りょーこ
この書籍の著者、アリス・ウォータース氏が今月来日した。その旅の様子は、映画化が予定されており、現在クラウドファンディングが実施されている(2023年10月30日まで)。
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