観客それぞれが描き出す、自分だけの検閲室。『柳家さん生 独演会 「落語版 笑の大学」』
コツ、コツ、コツ、コツ
立てた扇子を台に打ち鳴らす音で、場面は翌朝に切り替わる。
衣装も、セットも、小道具も、照明も変わらない。それでも観客には、朝を迎えたことが分かる。
なんという最小限の演劇なんだろう。客席に座る私の視界に入るのは、着物を着て小さな机を前に座る噺家一人。手には一本の扇子。それだけだ。それでも私には、ここが狭く薄暗い部屋で、カタブツそうな検閲官と飄々とした舞台作家が小さな事務机をはさんで向き合って座り、会話をかわす様子が見えてくる。その机の上には劇の台本と赤ペンがあるだろう。検閲官の湯のみも置かれている気がした。
柳家さん生 独演会『落語版 笑の大学』。
演劇、映画、ラジオドラマとさまざまな形式で上演されている三谷幸喜さん原作の喜劇を、柳家さん生さんが落語で上演する。登場人物は「笑いを憎んだ検閲官」と「笑いを愛した劇作家」の二人だけ。限られた空間で、二人の会話だけで話が展開する密室劇だ。
時代は、戦争の気運高まる昭和初期。娯楽は規制され、演劇も台本の検閲を受け、許可を得なければ上演ができない。劇団「笑の大学」の劇作家・椿は喜劇の上演許可を得るべく、検閲官・向坂に仕上がったばかりの台本の検閲を受けている。この非常時に喜劇の上演など断じて許さない向坂は、椿に無理難題をたたみかけ台本の修正を命じる。それでも喜劇を諦めない椿。真摯にその要求に応えながらも、内容はどんどんおもしろくなり……。
三谷作品らしく、終始クスクスと笑いが起きる軽快なストーリーだった。
座布団の上から動かない、身一つの噺家を見ながらその語りを聞くだけで、登場人物の様子がありありと思い浮かぶ。声色を変えるわけでもなく、身振り手振りや表情の変化が大きいわけでもないのに、都度どちらの人物が話しているのかがはっきりと分かる。テンポよく進んでいくストーリーに置いていかれることはなかった。その様子を見ながら、ふと思い出したことがある。
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私には一卵性双生児の甥っ子がいる。本当にそっくりな二人で、特に彼らが幼児のころは、家族で集まるたびに誰かが名前を呼び間違えてたしなめられるのはお約束の光景だった。
それでも、なぜか私には二人を見分けられていた。ただなんとなく、どちらがT君で、どちらがR君か分かった。あるとき、二人並んで寝ている彼らを見て驚いた。寝ている二人は見分けられなかったのだ。あれ、と考え、気づく。「顔つき」だ。寝てしまうと表情がなくなるので、全く同じ顔に見えてしまう。でも起きているとそれぞれの顔つきになり、個性がでてくる。なんとなく。ちょっとした眉の寄せ方、ちょっとした頬の持ち上げ方なんかが顔つきを作り出す。そっくりな顔かたちをしていても、内側からじんわりと出てくる顔つきで、こんなに違う印象になるんだ、と、私は大発見したような気持ちになった。もう、15年くらい前のこと。
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テンポの速い二人の会話を軽妙に演じるさん生さんも、役により「顔つき」が違った。厳しい検閲官は、ぎゅっと引き締まった顔。頑固そうだ。柔和な劇作家は、穏やかに緩んだ顔。なんだか応援したくなる人物だ。この二つの顔を瞬時に切り替えて演じていた。顔に合わせて話し方も変わる。衣装もセットもない落語の舞台上では、顔つきは噺家にとっての数少ない貴重な武器のひとつらしいと知る。
演劇には親しんでいながらも、落語は片手で数えられるほどしか見たことのない私には、落語は「引き算の技」だった。
前述の、朝を迎える演出。演劇であれば、照明が朝の光にすっと変わり、鳥のさえずりが聞こえたりするだろう。「おはよう」と言って出てくる登場人物は、パジャマ姿かもしれない。それで観客は、朝が来たことを認識する。
一方で今回の落語では、見台(噺家の前の小さな机)を鳴らして表現するドアのノック音だけで朝の訪れを表現していた。視覚的には何も変わらない。究極の引き算だ。
当然、落語は演劇から引き算してできたものではないけれど、「演劇側」にいる私から見る落語はそう映った。
唯一手に持っていた扇子も、開かれることも小道具として活用されることもなく、音を鳴らして朝を表現する以外は、ほとんどずっと見台に置かれたままだった。
(後日調べて知ったが、張扇(はりおうぎ)と呼ばれる、ものをたたいて音を立てるための専用の扇子があるそうだ。今回使われていたのは、これだったのかもしれない。)
最後の最後、もう一つの小道具が登場した。胸元から出てきたのは長方形に折りたたまれた真っ赤な手ぬぐい。「赤紙を受け取りましてね」と劇作家が言う。それまで優しい笑いに包まれていたその場が、ヒュッと引き締まるのが分かる。そこまで全く変わらなかった照明が、少しずつ変化する。客席は暗くなり、舞台上は光が強くなる。「赤紙」が光って見えた。
検閲官の力強いひと言、そして観客があちこちで鼻をすする音で、噺は終わった。検閲官の最後の目つきが強く心に残る。
落語というものの一丁目一番地に、つま先を下ろした気がする。手元の国語辞典によると、落語は「こっけいな話のおわりに『おち』をつけて結ぶもの。会話で筋をわからせる」とのこと。でもそれは会話だけでなく、会話以外の最小限の武器を駆使して、観客の想像力を引っぱり出すことで物語を成立させる技に見えた。演者を「噺家」というけれど、その技は話術だけではなく、彼らは非言語情報の巧みな操り手でもあった。使う武器が少ないからこそ、落語は観客の知識量や想像力に依る部分が大きそうだ。芸術ならどんなものでもその傾向はあろうけれど、落語は特に受け手によってその脳内で描き出されるものが違い、またその違いを良しとする芸術なんじゃないか。
一時間ちかく観客の視線を一身に集め、その注目を途切れさせることなく話し続ける噺家の技に震えた。中毒性すら感じさせる、強烈な力があった。この感覚をもっと味わいたいと気持ちがはやる。さっそく、次の公演のチケットを取った。
柳家さん生さんの『落語版 笑の大学』は、この時期恒例の上演とのこと。来年も、行かないわけがない。
文/伊藤 ゆり子
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