愛は生まれるのか、もともとそこにあるのか。助詞の迷宮へようこそ【連載・欲深くてすみません。/第18回】
元編集者、独立して丸8年のライターちえみが、書くたびに生まれる迷いや惑い、日々のライター仕事で直面している課題を取り上げ、しつこく考える連載。今日は原稿での「てにをは」、つまり言葉と言葉をつなげる助詞の選び方について考えているようです。
ひらがな、たった一文字で世界が変わる。それが日本語の面白いところだ。
『ハウルの動く城』を『ハウルが動く城』に変えるだけで、城の中でハウルが機敏に動きまくる話になってしまう。一階から二階へ、二階から一階へ、上がったり下がったり。ああ、ハウルが動く、目まぐるしく動く。誰が観たいか、そんな話。
このように難しい助詞の選択。原稿を書くときにも、ものすごく長考する。ひらがな一文字とあなどってはいけない。
「私はパンだ」を「私のパンだ」に直す、のような明らかな誤用を避けるのはたやすい。難しいのは、誤用ではないけれど、助詞ひとつで伝えたいことががらりと変わる例があることだ。
星野源さんの『くだらないの中に』という楽曲がある。冒頭の歌詞を引用してみる。
髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさいなあってふざけあったり
星野源(2011)『くだらないの中に』
くだらないの中に愛が 人は笑うように生きる
実は私、この曲のタイトルを長年「くだらないの中で」と間違って覚えていた。たった一文字の違い。でも、その違いでこの曲の伝えたいことはまったく変わる。
「で」も「に」も、ここでは場所を表す助詞の用途で使われている。「で」と「に」の使い分けは厳密に言うといろいろあるようだが、原則的には
・「で」は、ある行為の行われる場所を表す
・「に」は、ものの存在する場所を表す
という違いがある。その原則で考えてみると、
「くだらないの中で愛が」と歌った場合、“髪の毛の匂いを嗅ぎあって くさいなあってふざけあったり”するような、くだらない(空間)の中で愛が生まれる、交わされる、育っていくというような意味になる。
一方、星野さんの書かれた歌詞は「くだらないの中に愛が」。
つまり、くだらない(空間)の中にもともと愛が存在しているというような意味合いが生まれる。
どちらがいい? どちらが伝えたかったこと? 私はやっぱり、星野さんの書かれた「に」がすばらしいと思う。
だけど、それでも「に」が唯一無二の正解というわけではない。「くだらないの中を愛が」と書き始めてみたら、まったく違う物語が始まりそうだ。
*
ライターとして独立する前は、助詞のような文法知識を調べたり覚えたりすることがとても苦手だった。
さかのぼると、おそらく助詞をくわしく学んだのは中学校の国語の授業だ。記憶は薄いが、助詞の分類や、使い方のルールや原則について習ったはずである。
それらが習得できているか試すためのテストや入試では
次の文の〈 〉に当てはまる正しい助詞を選びなさい。
のように、空欄前後の文章の意味からして入れるのに「正しい」助詞を選べるか(明らかに「間違っている」ものを選ばないか)を問われることが多い。
もちろん助詞の用法を知り、正しく使い分けできるようになるためには重要な過程である。だけど私は「ルールを暗記し、それをあてはめて、たったひとつの正解を選ぶ」という作業を、退屈で窮屈なものとして捉えてしまったようだ。漠然と「助詞はめんどうくさい」「文法はきらい」と思うようになった。
それが、はて、どうしてか。自分で文章を書くようになってから、助詞との付き合い方が少し変わった。助詞が、自分が伝えたいことを伝えるための味方や相棒、もしくは武器のような存在に思えてきたのだ。
原稿を提出したあと、それを読んだ編集者さんや校閲者さんから「ここの助詞は違うのでは?」「こっちのほうが適切なのでは?」とコメントをもらうことがたまにある。そういうとき「どれが正解だっけ」と教科書をめくるだけでは絶対に答えは出ない。
その文章に適切な助詞を選ぶためには、必ずこの問いが必要だ。
「私は何を伝えたかったんだっけ」
正しいか、間違っているか、だけの世界ではない。私が何かを書きたい、伝えたいと思ったとき、それをするのに適切な機能をもった助詞が目の前に現れる。その助詞には翼が生えていて、私を遠くまで連れていく。
*
この連載でも、まさにそういうことがあった。前回の記事を書いたときに編集長から原稿の一部について「ここの助詞は『に』で良いのか、私は『で』のほうが自然だと思ったのだけど」と指摘されたのである。
う〜んと悩み、助詞について書かれた本や記事を読みながら醸し出すニュアンスの違いを学び、私の伝えたかったことを改めて整理し、やっぱりこっちのほうが……などと考えているうちに、突然、私の身体にびりびりと電気が流れた。
なんて面白いんだろう。ひらがな一文字でこんなに迷って。
「正しい」「間違っている」という尺度しかないと思っていたものの外に、これほど曖昧で楽しい世界があったなんて。
書くという行為には、マルかバツかだけの世界からおのれを連れ出し、主体性を取り戻すような瑞々しい喜びがあるんだなあ。
だから、書くことがやめられない。ん? 書くことはやめられない? どっち?
文/塚田 智恵美
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